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鹿友会誌(抄) 「第三十三冊」 |
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△阿部十六五君の死 京城 川村十二郎 花輪の実兄の長逝に逢うて一月余、今年三月十四日の夜十一時頃、安東県の阿部十六五君 の処から「病気危篤」の知らせに接しました。家族の者は皆寝んだ後なので、私が 飛び起きて電報を受け取った。余りに突然なので全く驚いてしまった。一旦床に入って、 まんじりともせずに居ると、やがて午前一時過になってまた電報だ。はっと思って受け取って 見ると、 『死去した』 との訃報であった。何が何だか、合点がゆかない。 翌くれば十五日、朝の急行列車には間に合せることが出来ず、役所へ出かけて打ち合せる 用事などもあったので、同夕の奉天行列車に乗込んだ。黄海道下聖錢山の内田廉治様も 安東へ行かれるので、種々善後の事など語り合ひながら、沙里院駅から同車した。 十六日朝安東に着く、駅には奉天の阿部勝雄さん、その他の人たちが迎へてくれた。 全く突然の出来事で、満洲から十何年振りかで昔馴染みの方が来遊されて大層喜び、 十四日の午後三時頃、対岸新義州の王子製紙会社分工場を案内して行って、同社内で発病 したのだといふ、脳溢血であるが、医師が後で尿を検査したところ、前から腎臓が余程 悪かったと云ふ話であった。医者嫌ひの十六五君は、それまで全然気づかなかったらしい。 遺族は、妻君の外に三男三女。 葬儀は十六日午後四時、同地六角堂相音寺に於て執行された。万端南満電気会社支店の方々、 高橋支店長以下総がかりで御世話をして下されたので、吾々が何もする用事は無かった。 それに二十年近くも安東に在住したので、心安い方々が何かと親切に御世話をして下さった。 安東新義州秋田県人会幹事の齋藤圓次郎氏は、能代の人で、十六五君と前後して安東に 来住し、鉄工場を経営して居られる方である。 葬式は稀れに見る立派なものであって、安東県の官民、主立ちたる人々が二百名も会葬され、 花環など数十個も寄贈された。中にも安東支部官民から、電信電話局長や同技師長、商人等から、 假(衣偏の假)襦の弔旗(大幟)が数旒も寄贈され、それには支那一流の筆績も美事に、 「哲人其萎」 「長江風寒」 「高談難再」 などゝ大書してある。誠に立派なもので、支那人から、斯うした幟りを寄贈されるといふ事は、 滅多に見られぬ事であると云はれた。 式には、会社支店長、在郷軍人会等からも弔詞を挙げられたが、鹿友会としては、内田廉治様に、 左の弔詞朗読を、私から無理に御頼みした。 弔詞 会員阿部十六五君、夙に壮士を抱いて満洲に渡航し、奮闘努力、二十有余年、我が郷友の先達 として敬慕禁ずる能はざりしに、遽に訃音を聞く、誠に哀惜の念に堪へず、茲に一同を代表して 謹しみて弔詞を捧ぐ 昭和五年三月十六日 鹿友会幹事長小泉榮三代理 内田廉治 |