鹿友会誌(抄)
「第三十一冊」
 
△陰謀の鹿角「眞田大古事件の記録」
<下斗米與八郎の手記>
 明治十年五月三日午後四時、偶然友人の小笠原定一氏を訪問し歓談中、はからずも眞田大古の事に 及んだ。定一氏曰く、秋田県鹿角郡に不遜の徒、徒党を組み、大古に通ずる者りと聞くが詳しいこと はわからぬ、君行って探知し、これを未然に防ぐも報国の為ではあるまいかと、自分は承諾し、 翌四日未明、家を出て、午後六時鹿角郡毛馬内村の旅館太田勇助方に宿泊し、五日朝豊口唯志を 訪問し、大古の一味で川村甚八郎の頼みで来た旨を告げると、唯志は密室に自分を誘ひ、喜色は あったが安心なりがたき様子で、そんな話はあるさうだが自分は知らぬといふ。そこで、 君は自分を疑ふのか、自分は親友枡田と相談をきめ、君を訪ねたのだ、疑ふなと、枡田から得た 檄文を示し、同志の証とした所、唯志は漸く安心の色を見せ、君、既に赤心を吐露し来り、事を共に しやうといふ、なんで疑はう、ちょっと君を試してみたのだ、実は客月十九日豊口仲之助、 内藤新八が来て、川村邸に会合し、諸般の事をきめたのだとて、自分の出した檄文を視、黙して一言 もいはぬ。
 
 そこでその議定した内容を問ふたが、依然口を開かず、突然、長々と商売上の話を始めた。 耳を傾けたが、なんの事か一向わからぬ。これは陰謀徒党の合図語らしい。自分は正午辞して帰宿 したが、間もなく唯志が訪問して、西郷の熊本を去るの機を語って辞去した。間もなく平尾橘陸、 内藤新八が来訪して、川村邸の議定は、四月二十五日夜を期して事を挙げ、第一に青森鎮台兵営及び 青森県庁を襲ひ、三井の出店をかすめ、盛岡方面では山田の手を以て岩手県庁を襲ふことに連絡を取り、 大古は青森に出発したが、急いで事を挙げても、兵寡く外援の助けなくば、一敗地に塗れるの憂ひが あると、川村に告げたので、川村は人を走らせて大古を中途より帰らしめ、相談の結果を告げた所、 大古は今になって躊躇しては、いづれの日か目的を達することが出来やう、延ばすよりは死を選ぼう といふ。川村は、君はまだ若い、軽挙は失敗の基である、自重しろとなだめたので、大古も承服し、 事を挙げずに今日に及んだ。

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