鹿友会誌(抄)
「第三十一冊」
 
△陰謀の鹿角「眞田大古事件の記録」   石川六郎
 私は新刊書に対して、酒飲みが盃の底の一滴まで飲み乾すやうに、最後の一頁まで 読了することは、極めて稀である。その稀なる書物の一つに『岩手県政物語』がある。 それは、私の同僚である盛岡の人、朝日新聞通信部長伊東圭一郎君の編にかゝるといふ事 のためではなく、我々鹿角人に取っては、眼前の利害関係こそは秋田であるけれども、 父祖多年の伝統たる南部魂がまだ冷却し切らないからでもあらう。
 殊にこの書の記述が、屡々鹿角に言及されて居り、抑々の書き出しからして、南部魂が 奥羽戦争で鹿角口に出兵したことから始まってゐるなども、容易に我々の視神経を刺激する のである。
 
 尚ほ読んで行くと、明治十七年の頃、洋服時代の来ることを早くも予見した先覚者があって、 二戸郡福岡町附近に緬羊の飼育を始めた。所が夜なよな狼が現はれて、片端からこの緬羊を 喰ひ殺し、如何に防げども防ぎ切れず、緬羊は殆んど喰ひ尽され、為めにこの事業は挫折して しまった。この恐ろしき狼群こそは、秋田県鹿角方面から襲来したのである。かくて緬羊は 尽きても、狼群は到る処に出没し、牛や鶏を襲うて食欲が充たされると、今度は彼等に取って 恐らく眉目麗しかったであらう所の人家の犬に、片っ端から凌辱を加へ、妊娠させたから 堪らない、凶悪なる父系の血を多分に受け継いだ混血犬が、父に劣らぬ狂暴の限りを尽した。
 
 これがために石井県令から『如何にして豺狼を防止すべきか』といふ珍諮問案が県会に 提出された始末であったなどの面白い記述も見え、一体に鹿角は、南部に取って狼が 象徴するやうな「手におへない」或るものがあったやうに推測される。
 次に述べる眞田大古の陰謀事件もその例の一つに数へることができやう。
 
 眞田大古の事件といふのは、明治十年、西南の役に関連して起った事件で、政府顛覆の陰謀 を企てたのであるが、事前に曝露して大事に至らなかった事件である。首謀者眞田大古は、 旧南部領たる青森県三戸郡と秋田県鹿角郡の境に在る、来満の神社の別当であって、薩長政府に 反感を抱き、西郷隆盛を敬慕してゐたが、西南の役起るや、岩手、青森、秋田三県下を 潜行して同志を集め、八戸地方に小秘密結社を作り、熊本の神風連と呼応して起たうとしたが、 事未然に発覚して縛に就いた。
 事件の顛末としては僅かにこれだけの事実しか判って居らず、その一味がどう処刑されたかさへ、 判明して居ない。併し当時福岡に下斗米與八郎といふ人があって、この陰謀事件を知り、単身 鹿角郡毛馬内村に赴いて事件の内容を偵知し、その報告に基いて、一網打尽された次第であるが、 この下斗米與八郎が当時、毛馬内に於て探偵に従事した一切の顛末を自ら記録して置いた手記が、 偶ま発見され、それがこの『岩手県政物語』の中に載せられてゐるのである。この中に出て来る 加担者が何れも毛馬内で相当知名の人物であるやうに思はれるので、茲にその全文を転載する。

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