鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△亡き友を偲びて   奉天 阿部勝雄
 今度、石田男爵と關様との亡くなられましたに就いて、その追悼号として会誌御発行の 思召しと承はりましたが、男爵には不幸にして終に御目にかゝる折なく過ぎましたし、 また關様にも全く二十年余りも御逢ひ申さぬ様な訳ですから、憶ひ出と申しましても 別段これと纏まった事を書く事も出来ません様な次第でございます。
 私共十三四歳の時分には、例の白木綿の兵児帯のしかも太いのを巻く事が流行した もので、それを締めた關様の少年姿、そして宛も成人の物言ひの様なゆっくりした口調で、 話をさるゝ方であった事などが断片的に思ひ出されます。
 
 養鶏に非常な興味を持って居られた事なども、記憶に残って居るので御座います。
 一昨年、東都震災後の御書面には、当時丁度入院治療中、地震の為に却て奇蹟的に快癒 に向ったとの御知らせでありましたが、その後御病気の御様子などについては、大連の 小田島様に御逢ひ申した時分などにもよく承りまして、切に御全快の日を祈って居りました のに、とうとうよくなられなかったのは、誠に残念な事で、今更分別盛りとか働き盛りとか云ふ、 世間並の言葉を申しました所で、詮なき事ではありますが、奥様や東一様は申す迄もなく、 御近親の方々の御悲嘆は一層の事と、御察し申すの外はない次第であります。
 昨秋、鎭南浦の内田守藏様が突然亡くなられました時といひ、全く旅に居て友の訃報を得、 しかもそれが同じ位の年配の友に、永年相見ぬまゝに永別したと思ふ時、何とも譬ひ様なき 人生の寂しさを感ぜずには居られません。内田様も同じ春には僅十日許の間に猩紅熱の為に 三人の御子様達を続けさまに亡くせられ、秋には又御自身が何一つ遺言さるゝ事も出来ぬ様な 急症で逝去されましたと聞き、全く私は余りの事に何と悔みを申上げ様にも言葉も術も 見出だし得なかった様な次第でした。

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