鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△情理兼ね備へた人   同潤会理事 宮澤小五郎
 關君と私とは、秋田県庁在職以来の友人で、お互に東京市役所に奉職するやうに なってからは、いっそう親密の度を加へ、市役所時代の關君の事に就いては、尤も よく知って居るつもりである。だから、關君の事の就いて、書かして貰ふのは、 私の権利であり、義務であると信ずる。
 
 關君が、東京市に来られたのは、彼の有名なる疑獄事件のあった後、後藤子爵が市長となられ、 永田、池田、前田の三人材をひっこ抜いて来て、助役に据え、市政の大改革を行った時である。 そして、紊乱の極に達せる市政を、根本より改革する為めに、新に監査課なるものが 設けられ、其実権を委ぬべき人物を求められたとき、其選に入ったのは關君であった。
 
 監査課は、市政の監査をするといふ目的の下に、後藤市長の、特に力を入れて設けられた 一課であるから、其局に当る者は、人格手腕兼ね備へた人物でなければ、其仕事を完全に 遂行する事が出来ないといふ事からみても、關君が其位地に抜擢されたといふ事は、 同君が如何に傑出した人材であるかといふ事を、立派に証明して居るものと思ふ。
 だから、關君が市役所在職中、市政改革の為めに甚大な功績を残したといふ事は、申す までもない。關君自身は、知って居らなかったかも知らないが、余り人を賞めたことのない 或参事会員が、或公開の席上で、同君を極力推賞し、其人物に惚れこんで、自分の区の区長に 迎へやうとした事さへある。
 關君が病気の為め、市役所を半年以上も休んだとき、当時の永田市長に辞職を申出たところが、 何年間静養してもいゝから、辞職するには及ばないといって引止められたのをみても、關君が如何に 惜しまれて居ったかといふことがわかると思ふ。
 
 世間には頭脳明晰で、冷かな感情の持主であったり、情が厚いが頭が鈍いといふやうな人があったりして、 情理兼ね備へた円満なる人格者が案外少いものであるが、關君の如きは、玲瓏玉の如き頭脳の持主 である事は、いふまでもなく、情に厚くして、人に親切であった事は、關君に接した人の、 何人も之を認むるであろうと思ふ。
 私は其頃、市の経理課の方を受持って居り、随分煩はしい問題が少くなかったが、事ある毎に、 先づ關君の意見を聴き、同君の判断を参考として、私の仕事の方針を決定したのである。 前にもいったやうに同君は、従って、洞察力が人一倍優って居たがために、その判断が常に透徹して、 渋滞する処がなく、どれだけ助かったか知れない。此点は同君に対して、深く感謝して居る。
 私には友人も多いが、關君の如き益友を失った事は、私にとって非常なる損失である。
 
 最後に一言附け加へておきたい事は、とかく監査とか、検査とかいふ仕事に従事する者は、 人に怨みを買ったり、悪口いはれたりするものにきまっているが、關君に対して、悪声を放った 者は、一人もなかったといふ一事である。之は同君が、如何に人格者であったかといふことを 証するものと思ふ。
 同君に就いては、それからそれと、とめどなく追憶すべき事が湧いて来るが、御紙面の都合も あろうと思ふから、今回はこれだけで止める。

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