鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△關達三さん   札幌 中島莞伯
 達三さんと所謂同病相憐むで、永いこと互に同情しあって居りました。其後達三さんも 私も全快しましたので、御互に喜び会って居ったのです。処が十三年二月燕樂軒に於ける 新年宴会で御会した時は、前と打って変って大分御衰弱のやうに見受けられました。 又本年二月、私が花輪に参りました時、承ったところが何人にも面会は謝絶と聞いて、 少からず御経過を案じて居った次第でありました。
 
 達三さんは真面目なお世辞の無い、主張の強い意志の強固な、而かも世情に通じて 居る方でありました。
 達三さんの待合政治を罵り、料理屋妥協を排斥したることは、皆さんも御存じの通りですが、 上調子に附和雷同することや、権勢に阿諛することは嫌ひな人でありました。 ですからちょっと会っただけでは、頑固な偏屈な人のやうに見られましたが、中々そうで無い、 新しい思想は常に咀嚼して居りましたが、只新思想だからとて、無暗に雷同しない点に氏の強い 処がありました。又青年の言論には常に敬意を払って居ったが、然し上調子に走ることを 戒めて居りました。
 今や郷土の青年が、一方に頑迷度し難き旧思想家がある反対に、新しいとさえ言へば 凡てが善いことゝかぶれて居る、所謂自称新人の少からざる秋に際し、君の如き温堅なる 思想の真面目なる青年を亡ふとは、郷土の為め誠に惜しいことに思はれます。

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