鹿友会誌(抄) 「第二十七冊」 |
△關達三君 月居忠悌 僕の關君と深く相親交するに至れるは、關君の内務省時代より始まる。それ以前は別に 特記の交遊記はない。君は行政監査に関する手腕は、蓋し天才的であったらしい。後藤市長 時代、一時市に出張して監査の任に当って居る間に於いて、池田、前田両助役の知遇を得て、 市に転任を懇望せられたのであった。君は転任に際して迷ふた。果して市に行くのは、 安全第一の方針であるや否やの去就の判断に就いてである。 或る日僕に關君から電話が掛けられた。一寸身上の判断に就き相談相手になって貰ひたいから、 これから東京駅第二等待合室で落合ひたい云々。僕は美人との密会ならば云々と冗談を云ひながら、 東京駅待合に出懸けた。それより日本橋某旗亭に赴き、市に転任慫慂せられた一伍一什を打ち明けられ、 去就如何に決すべきやの御相談であった。僕は士は己を知る者の為めに死すと云ふ、今人あり君の 有能を認め、三顧の礼を尽されたる以上は、前途の険夷如何を度外視して御転任なりては如何、 併し是れは意気を尚ぶ男の道を以てお答えするので、時代思潮なりや否やは別問題である。 君には繋累あり且つ若干の御都合もあるべく、感嘆に士道のみによって去就は出来ぬのであろう、 依て僕は茲に内務省に止まりて窮極の点と、市に転して窮極する点の二つに分類して、両々 相対比し、君の去就判断に資せんと、両方の幸運の極点を予想して御参考に供し、且つ結局 君が子弟教育の大願を成就する便宜の点より見れば、東京市に御転任せらるるは得策ならずやと 附言した。君曰く、郡長とか理事官と云ふ転任の恩典に浴して、家財や妻子を車に載せて、 浮草稼業へ転々し、子女の教育を継続せしめるのは勿論冀はざる所であると。 茲に於いて市に転任せらるることになり、僕に川村警保局長に自分の事は申上難いから、 最初は僕に川村様の貴意を得て呉れとの事であった。僕快諾川村様をお訪し、其の旨を 申上たのであった。 斯くして關君は市の監査課の主事として、乱麻の如き市政に整理革正を加へたのであった。 君の監査振りの一班は、一二度新聞にも出たから僕は贅言しないが、部下を引具して 区役所などに臨めば、戦々兢々たらしめ、眼光の徹底犀利の観察爬羅剔抉不正は忽ち 白日下に曝露されたらしい。市区風を望んで緊張し、執務一変を来したる様であった。 天稟の研究心より透明の数理的頭脳で、倦まず撓まず苟もせざる監査振りは、蓋し稀世の士 であった。 此の天才は、遂に横浜市の垂涎する所となり、数千円の年俸の大禄で招聘せられて あったらしいが、遂に迷はず東京市に止まったのであったと記憶す。 僕の紹介で伊豆伊東に転地せられ、帰途船によって品海台場の辺を通り、帝都の上空を 望んだところが、紅塵万丈、昼尚ほ暗き観にあるに驚き、此の地久しく我が生を養ふの 適地にあらずと決し、帰郷臥床を覚悟するに至れるものと僕に物語られてあった。 君は病弱者に通有の感情的な所もあった様である。公徳心のある人で、臥床中、人に 接するは一の罪悪なりと信じて居たらしい。因に君は又非常に親切な人で、人の為めに 労し、人の為めに世話することを意としない人で、曾て僕に曰く「私の市に居る間に鹿友会員で、 市に就職を希望する人あらば、出来るだけ多数の就職を斡旋する考である、自分独り幸福 なればよいと云ふ腹は毫もない」、仮すに春秋を以てし、区長たらしめ、理事たらしめ、 大に鹿友会員を周旋して貰ひ度きものであった。 君の此の理想の動機は、意味深長なものであったと考へて居る。お山の大将俺一人と云ふ、 他と没交渉な生存は、君の最も否定する処世観であったと考へて居る、蒼天何ぞ不仁なる嗚呼。 |