鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△關達三君を悼む   田村定四郎
 關氏は私とは少し年輩が違って居ったが、丁度私は郁文館中学を出る頃に、上京せられて、 小石川戸崎町の合宿生活に加入せられたと思ふ。合宿の家長は大里武八郎様で、佐藤良太郎氏、 諏訪富多氏など数名の同郷学生が、婆さんを置いて自炊生活をして居ったのである。同氏は、 郁文館を卒業後、仙台の二高に入学せられたが、不幸健康を害して、中途退学の止むなきに至り、 郷里で静養された、同氏が官界生活に入ったのは其後である。
 健康も恢復するし、遊んで居るよりは、と云ふので郡役所に勤める様になった、元来無口で、 研究性に富み、中々負けず嫌な方であったから、役所も着々良成績を上げ、抜かれて県庁に 栄転した。確か、郡役所に居った内に、普通文官の試験に通過し、其資格を得られた筈だ。
 在郷中及び秋田市に出られてからも、花輪青年の指導に努力せられ、今の青年の鹿角紙の前身 花輪青年紙などで、よく自己の意見なども発表して居った。
 
 同氏が官公吏で終始しようと決意せられたのは、愈々県庁に転任後らしい、而して官吏たる以上、 矢張中央省庁でなければ不可なりとして、内務省に転ぜられたのである。勿論これは、同氏の県庁 時代の成績が良好であった為めに、其当時の上官の認むる処となり、遂に本省に栄転せられたのである。 而し、同氏が東京へ転せらるゝことは、大に抱負があった、即ち官吏ならばどうしても高等官で なければ駄目だ、そこで、東京で高等文官試験を受ける準備をしようとしたのだ。内務監察官の部員 として勤務せられた同氏は、頭脳が緻密で、調査とか起案とかの方面には、適任であった様で、 茲にも亦良績を挙げた。
 
 其後、後藤子爵が奥田氏の後に帝都の市長に就職するに當り、同氏の股肱永田氏を内務省より抜き、 助役とせらるゝや、其永田氏の下に技倆を認められつゝあった關氏は、永田氏の懇情により東京市に転じ、 監査課長の栄職に就かれた、即ち東京市役所としては、高等官に相当する地位であった。永田氏が 東京市長となる哉、關君の前途も又洋々たるもので、舞台は帝国の首府たり、上は市長の信任厚く、 下は部下の信望を担へる等、我々も大に同氏の将来を祝福して居ったのであるが、何等の不幸ぞ、 大正十二年の春、再び健康を害し、杏雲堂病院に静養するの止むなきに至ったのである。
 而して、在院中偶々九月一日の前古未曾有の帝都大震災に遭遇し、病躯を押して、東に逃れ 西に走り、漸く安全なるを得たのであるが、之等が禍してか、其後の経過面白からず、 為めに同君も再び立って激務に就くの至難を自覚せるにや、十三年の初夏、断然市を辞して郷里に帰り、 心静かに療養せられたのであったが、遂に天佑なくして、今春不帰の旅路に立たれたのである。
 
 關氏も又人格者で、自己の責任は充分重んじられた、そうして永田氏の殊遇に報ずる為めに、 献身的に働いた様だ。昨年私が同氏の新宅を訪問した際に『欠勤も長びいたし、規定によって昨日市長に 俸給も辞退した処が、そんな心配をせずに専心療養して早く丈夫になり給へ』と慰撫せられたとの事を 聞いた。
 上官に忠実であった事は勿論だが、部下に対しても温厚親切で、能く庇護せられた為めに、大に部下の 信望があった、之れは、小生が部下から聞知した事実である。而して友情に於ても亦厚く、後輩のためにも 大に尽力を惜しまなかった。同郷者で、同氏の斡旋を受けた方も多々あるだらう。私もその厚意を 受けた一人だ、私の別家分で現に小石川の区役所に勤め、生活の資を得て、傍ら日本大学の夜学に通って 居る田村茂太郎と云ふ者がある、東京に出て苦学をしたいと云ふ希望を以て、私に相談して来たが、 何等素養もない者が、自活の収入を必要とし、而かも夜の勉学時間を得やうと云ふ、六ケ敷い注文で、 到底民間会社などでは至難であるから、時間の正しい官公署でなければと考へ、關氏に御尽力を願った、 処が私に対する友誼上、色々心配をして同人の希望を遂げさせて下された。私は同氏が上京せられてから、 機会ある毎に面会して、大に友情を進めて居った(同氏が関西地方に来る時や、私が東京を訪ふ時 などに)、しかして私は、私交上同氏の死を悲しむのみならず、未だ春秋に富む、漸く四十歳位で、 此前途ある人物を失った事が、我々同郷に取っての大なる哀惜であると思ふ。殊に鹿角には他国に 出て活躍して居る人物が乏しいのだから。
 けれども、一郡吏より身を起して、遂に帝都政庁の枢要の地位に登った關氏は、又青年の模範ては ないだらうか、而も二高を去って、在郷するに当り、養鶏事業に着眼して、良種を移入し、大に之を 奨励して、郷里養鶏界を覚醒された遺功もある、同氏又冥すべきか、茲に鹿友会誌を通じて、哀惜の 情を述べます。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]