鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△關達三様   川村十二郎
 關達三様、子供の時分「澤口の天皇様の達三さん」と云ふ外に、余り御縁が ありませんでした、その後学校も違って居りましたし、何でも高等学校を退めて 郡役所?へ出て、大に敏腕を振はれると云ふので、窃に敬意を表して居たものでした。
 御心安くしたのは、寧ろ近頃のことで、それも鹿友会が中心になったのです。
 達三様は近代鹿友会中興の事業に当るべき使命を担うて居った人で、幹事長になられた 当時は、自身も確にそれだけの覚悟を持って居られたやうです、若し健康が許したならば、 その理想が或る程度までは実現されたでせうに、残念なことをしました。
 
 丁度去年の今月十四日に、私が朝鮮から上京して大崎の御宅を御訪ねして暫く御話しあったのが、 永久の御訣れにならうとは思ひませんでした。鹿友会の事についても、いろいろ意見を持って居られました。 併し關様は徒らに想像を追ふ人ではなく、堅実な実際家であったと思ひます。それで会の事に就ても、 短い間にいろいろ改善されたことが少なくはない筈です。關様は将来、鹿友会の大黒柱になって貰はねば ならない人物でしたが、如何にも残念なことをしました。
 
 一昨年の大地震の時、駿河台の病院から方々を逃げ廻って、一週間目かにやっと大崎の御宅へ 帰ったと云ふ、本当に九死に一生をえた体験談も聞きましたが、遂に病気のために多大の志を 抱いたまゝ逝かれたのは、誠に悲しいことです、何うも石田様ていひ、關様といひ、 思ひ出と云ふやうな事が出て来ないのは遺憾です。
(大正一四、五、五、京城にて)

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]