鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△達三様の事   小田島信一郎
 達三様が高等三四年の頃、理科の実験があると、いつも先生の助手となって、 いろんな器械を器用にもてあつかふのをみて、私は羨ましくて、たまらなかった。 小学時代から、既に理学方面に於ける天才的閃きを、現はして居たのであった。
 二高の二部に、一番で入学し、いよいよ其天分を発揮しやうとした時に病気のため、 退学するの已むを得ざるに至ったのは、如何にも残念な事であった。
 健康恢復してから、全然方面の違った役人生活に入ったにも拘らず、透徹せる頭脳は、 行くとして可ならざるはなく、終には東京市主事に抜擢せられ、最も難しとせらるゝ 監査事務に従事することとなったのである。
 
 将来理学の大家たるべき素質をもって居られた達三様が、伏魔殿の称のある市役所にはいって、 乱脈極まりなき市政の監査に当った時、其鋭き頭、冴えたる腕が、如何に腹黒き吏員共を 戦慄せしめたか。思ふだに、小気味好いものであった。
 さればこそ、当時の名市長永田青嵐氏も深く其才を、愛し期待すること、 非常なものであったといふも、亦宜なる哉といふ可きである。
 然しながら私は、達三様が、市役所の吏員として、名声を揚げたといふやうな事は、 達三様の天分からいっても、寧ろ小さな方面であって、もっともっと、外に大きな方面が あったやうな気がする。
 それは、達三様が科学者として立ったならば、以処まで延びて行ったらうかといふ点である。
 
 からださへ丈夫であったなら、そして、二高を中途退学しなかったなら、今頃は理学博士 關達三の名は、日本の学界のみならず、世界の学会に於ても、相当重きを為したであらうにと、 どっちにしても四十一歳といふ働き盛りで、此世を去った達三様は、不幸な人であり、 惜しまるゝ人である。
 
 同年の友失へる余寒かな

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