鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△追悼録「關達三氏小伝」
明治十八年二月五日 秋田県鹿角郡花輪町七拾五番地士族關廣露氏の長男として生を享けられた。
 小学校時代より物理、数学に興味をもち、理科の実験には先生の助手をつとめる。
明治三十二年四月一日 笈を負ふて上京し、郁文館中学校に入学す。小石川区指ケ谷町二番地、 当時鹿友会本部に多くの郷友と共に住せられたり。
明治三十六年四月六日 中学校を卒業す。
明治三十七年九月一日 仙台第二高等学校大学予科第二部に首席をもって入学す。 (仙台市米ケ袋中坂通四三佐藤方に住す)
明治三十八年九月一日 病によりやむなく退校、故山に帰り静養せらる。病怠ると共に養鶏 をはじめ、種々研究せられ郷里の養鶏業に貢献するところ大であった。
明治四十二年十一月二十五日 花輪町助役に就任し、翌三月辞し、郡書記に転じられ、 会計係兼税務係となられる。
明治四十四年八月 文官普通試験に合格された。郡役所に居らるゝ間、郡の行政事務の 各方面に著しい成績をあげらるゝ一方、郷里青年の指導に心を用ひられ、「花輪青年」誌上に 筆をとられ、青年を激励し、卒先して青年団の事業に努力せられた。
大正六年一月二十七日 秋田県庁内務部庶務課に入らる、緻密明敏なる頭脳をもって 地方行政を監査された。
大正八年六月十三日 内務省に入り、監察官となられた。
大正十年二月 東京市長後藤新平氏の懇望されて東京市役所に入り、新に設けられた監査課 の主事として疑獄事件の後紊乱その極に達せる市政の大改革に従はる。
 その業績の甚大なりしため、各方面より懇望せらる。
大正十二年五月 鹿友会幹事長に推され、会のため大いに努力せられ、会の将来のため、 財団法人の計画までたてられ、すでにその実行委員会まで開きし時、病を得られ、 七月上旬駿河台下杏雲堂病院に入院せらる。
 九月一日の大震災には非常の艱苦をなされ、数日ののち大崎の御宅に帰られたのであった。 そののち、経過よく、写真機などをうつすに散歩にでられ、年末より正月にかけて、 伊豆伊東温泉に静養せらる。
大正十三年 一月頃から市役所にでられ、二月十一日鹿友会の川村顧問歓迎会には幹事長として出席 せられた程であった。
 そののち風邪にて再び休養せられ、七月二十九日再び郷里に帰られ、ひたすら静養せらるゝことゝなった。
 冬に入って風邪の為御身体が衰へらる。
大正十四年二月二十五日午前二時、白雪しきりに降る朝、遂に白玉楼中の人とならる。
 二月二十七日午前十一時、町民の深き悲しみの中に神葬、ながく故山の地に眠られた。 行年わづかに四十一歳。噫!
(佐々木彦一郎)

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