鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△石田様を追想して
 石田様は、厳格の様であるが、温情の深い、真面目な御性格で、拝顔を重ねるに従ひ 、敬慕の念が深くなり、勝手な自分の話を隔意なく御話もし、御訓戒を受ける様になっ て、一層崇高な御人格を理解する様になって来ました。私が或日、大阪の製煉所へ御伺 ひした時に、工場の機械の運転する音響が、可なり大きなものでした、御住ひは直ぐ工 場の一隅でしたから、「夜分には定めし御やかましいでしょう」と何の気なしに申上た ら、『否、工場の音響が続いて居る内は、常に安眠が出来る』と御笑ひになられました ので、私は思はず赤面しました。真面目でしかも責任観念の強い事は、実に此通りなの です。さうして常に、独立独歩を鼓吹せられ、どうも今の青年は、此観念が乏しくて困 る、殊に郷里の者は、青年とは云はず、一般に依頼心が余計だ、と云はれて、一夜御述 懐せられた事があります。
 
 御気質が前述の様に至極真面目な御方で、無下に人の世話になるものでないと云ふ御 立前であった様だから、従て非常に義理堅く、人に迷惑を掛けるのを御好みにならず、 不必要な交際は勉めて御避けになって居られた。或る時石田様が、どうも郷里の親類共 が君を初め、収入を省みずに支出するから、常に不足をする、『人間は自己の身分相応 の生活をしなければならない、三杯の飯が食ひなかったに二杯で我慢をするさ、不相応 の事をして人に厄介になるものでない、自分も其方針を以て今日迄過して来たが、随分 苦しい事もあった』と懇々御訓し下された事がある。当時私は漸く自分丈が凌げる位の 収入しかなかったけれども、郷里の母から補助を受けたなら妻子と大阪へ一家を持てぬ 事もなかったが、此御話を伺ってから、当分一人で生活する事に決心した。さうして約 二年後に、妻子を郷里からび寄せて、一家を現在附近に持った次第で、郷里からの援助 は、遂に今日迄受けずに、一家を支持する事が出来たのは、全く石田様の御蔭である。
 
 其後三菱研究所所長の栄職を辞せられ、全く閑散な身になられたが、其際も頭の良い 若手社員を支配して、研究の要点を与へ、指導して行くとすれば、自分も後れない様に 、新知識を保持せなければならない、之れが年の上に非常な苦痛だ、と仰言って居られ た。岩崎社長は、そんな心配はいらない、只顔さへ出して居れば良いから、と云ふて、大 に御引留になったさうだが、其責に堪へぬ、と遂に辞せられたのだ、要するに責任を重 んぜらるゝは、御人格の然らしむる処で、現今の様な時世には、実に尊敬すべき人格者 と申さなければならないお方でした。
 
 京都へ御閑居後、所謂功成り、名を遂げられて、実業界より御隠退後は、御好きな旅 行を続けられて、風光花月を伴とし、御家族方も皆順潮で全く御仕合せであったが、今 春東京、熱海地方へ御旅行後、不慮の御発病で、人事を尽せしも其の効なく、遂に悲し いかな三月十日に御長逝遊ばされました。御家族様は勿論であるが、我々同郷の後輩に 取っても、偉大な先輩であり、鹿友会の恩人を失ったことは哀惜の至りであります。近 年非常に、鹿角の思ひ出に親まれた様で、私の母などと昔の話などして打興じられて居 りました、母も屡々京都へ参上して、御厄介を頂き、又時には住吉の拙宅を御訪ね下さ る事もあって、花輪へ行っても緩り落付く気にもなれず、古い話相手も無くなった、と 述懐を漏して居られた事もありましたが、母も夏は毎年帰郷しますので、一夏田舎の方 へ御光来を願ひ度などと言って居ましたが、今は最早適はぬ次第であります。今回鹿友 会が追悼の会誌を発行するに当り、謹んで自己の思出を誌します。
 
 附記
 石田様が国家的に功労のある事や、又ああした社会上の地位を占められた御履歴に関 しては、幹事諸君に於て大方材料を蒐められ、編纂される事と思ひますから、私は単に 私交上感じて居る事柄を一二を述べたのです。

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