鹿友会誌(抄) 「第二十七冊」 |
△石田男との最終の面接 中島織之助 石田男の人物や人格に関しては、私の幼少の時に祖母や父親から聞かされて居りまし たので、そういふ立派な方は、鹿角の山奥から出られて居るのかと、一種のプライドを 感じて居りましたが、東京に出て豊口甚六叔父の宅に厄介になることになってからは、 チョイチョイ叔父から石田男に関する御話しを聞かされましたので、漸く男の人格に敬 慕の念を生ずるに至ったのであります。 私の男に始めて御会ひしたのは、明治卅九年の秋、上野廣小路の或る洋食屋で御馳走 になった時で、終りは一昨十二年八月の初め、北海道定山渓ホテルに御伺ひした時であ ります。 一昨十二年五月に私は札幌に転任しましたが、赴任した其翌月、当時興部に居られた 奈良正路さんから、をぢ様は七月三十一日午前七時の急行列車で札幌駅に着かれ、直ちに定山渓 温泉に廻はられる予定で、貴家にも知らして呉れ、とのことだから御知らせする云々、 との通信がありまして、しかも正路さんは前以て私の処に来て御待ちする積りでしたが 、其後正路さんからも京都からも一ケ月間計り何んとも音沙汰無かったものですから、 或は其後予定を御変更せられたのでは無からうかと思ひましたが、常々石田男の御性格 をも知って居るものですから、兎も角三十一日の午前七時に御出迎ひして見やうと、半 信半疑で出て見ました。処がさすが石田男です、一ケ月以上も前に予定せられた其日其 時間に、少しの相違も無く到着せられましたのです。此辺は確かに男の厳粛なる御性格 の一端を伺ふに足るものと感服いたします。 男は誠に規律正しく厳粛でありましたが、一方、人に接せらるゝには実に平民的で、 謙虚でありました。定山渓に参られましても、例の通り万事平民的に接せらるゝので 、旅舘でも心から恐縮して居りました。世間には口には所謂平民的を称せらるゝ方は沢 山ありますが、さて実際となると中々そうはゆかぬものらしい。処が石田男に限っては 、常に心の底から例の階級的な観念なく、真実に平民的にならせられたことは、皆さん の御存じの通りであります。 男と御会ひした其当時、私の管理して居る札幌支店の会計主任が、私の前任者時代か ら過度の酒色に耽った結果、金庫に多少の穴を明けて居りましたので、男の御渡海を好 機として、私は其善後策に就て、男の御示導を仰がんと其事情を有りのまま打ち明けて 御相談を御願ひしたのであります。処が男は、 一、酒色に耽るやうな男を会計に任用したのは、所謂適材を適所に任用する主義に反 したからである。 一、本人は某専門学校の優等卒業生にて相当手腕もあること故、社会的には殺さぬこ と。 一、金銭に一切関係せぬ職業を選択せしむること。 の三方針を原則として善後策を講ずべしとて、縷々本社に対する態度や、本人に対する 忠告の方針まで御教示下さいましたので、私も大に智恵を得、万事御教示の通り進行い たしました結果、当支部の革新も出来、本人も負傷せずに、現在は某中学校の教諭とし て立派に立って行って居ります。即ち男は、その罪を憎みて人を憎まず、若い男の過失 を責むる前に、之が任用指導の当否如何を吟味せられたるは、私の深く感謝いたした処 であります。 八月三日に定山渓を後に札幌に出られました、札幌にて郷土出身の成功者たる關直右 衛門氏、賀川源治氏を訪はれ、四日には札幌発、其後十勝方面より網走を廻はられ、宗 谷線より旭川に立寄られ、旭川にて男の小学校の先生といふ町井勝太郎氏の案内にて、 近文のアイヌ部落を視察せられたる旨、御通信があった。当時御別れしてから丁度二ケ 年になります。若しあれが永久の御別れと知ったなら、尚ほ御教訓に預りたいこと、御 指導を蒙りたいことは少からずありましたのにと、殊に遺憾に耐えられません。 突然花輪の舅から御病床中と承り、誠に愕いた次第であります。 噫、今や幽明境を異にして居ります。哀しい哉。 |