鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△噫 眞禪院殿   無得 佐々木彦太郎
 去る五月十日、九州旅行の途中、京都駅に下車し、洛東眞如堂境内で教へられた、松 の木の下の定紋の附いた門を開き、箒目正しく掃き清められた石田家の塋内に這入って 、先代の左傍、石田八彌野墓と墨痕鮮かな新しい檜の墓標を見出した。今日は丁度二タ 月目の御命日で、墓参せられたことが、挿したお華と線香の残灰とで肯かれた。先づ 用意したお華を副へ、線香を立てゝ最敬礼をしたが、脳裏にお迎へした石田様と、此の 新しい墓標とを比べた刹那に何となく涙が催し相になって来た。あたりには人のけもな く、只鳥が二三羽樹の上にさわいで居る、此侭に去るには何となく物足りない様な気が してならぬので、覚へて居る大悲呪を静かに唱へ初めたが、何時の間にか四辺憚らぬ大 音声となって居たのに気が附いた、徐に回向文を唱へて、真剣に御冥福を祷念した。
 
 電灯の点く頃、岡崎のお邸で奥様にお目にかかった。あれまでに、衛生に綿密な注意 をして居りながら「チブス」に罹ったのは、全く因縁と諦らむるより致し方が無い、人 間の命と云ふものは、実に計り知られぬものであると物語られた。
 私が、石田様に初めて御目にかかったのは、確か明治四十年の春、大阪泉布舘の桜の 頃であった。石田様は、三菱製煉所長時代で、専心設備の改善とか、能率の増進とかに 努力して居られた。兎角冶金の工場施設は、粗雑に陥り勝のものであるが、気持のよい 程整頓した所を見せて頂いて、おたしなみの程も窺はれた。今の自分の仕事にも、思ひ 出しては、教はった事が沢山あった。世の常の華族様と云へば、専門以外に、大抵は政 治運動めいた事に参与するのに反して、孜々として専門に没頭して、他の事には少しも 触れられなかった。本邦電気分銅事業の発達は、実に石田様の最初の設計に俟つ事が多 いと云ふことである。
 
 私は屡々御伺ひして、色々と業務に就いての疑を丁寧に教へて頂いた。石田様の趣味 としては、私の知って居るのは、碁、撞球、謡曲、読書、旅行などで、撞球は私も時々 製煉所でお相手を仰付った、余り上手と云ふ程では無かったけれども、私よりは少し上 手で、大廻しとかチャンスとか、冒険撞はよくよくでなければやらない、極めて安全な 撞き方であった。時々は私の方が勝つ事もあったと思ふ。
 
 其後東京で三菱研究所を創設されて、三菱関係事業の基礎研究を開始されたが、間も 無く辞められて、京都の新邸に隠退された。それからは煩累な社交を避け、或は禅院に 参じて、心地の開明に努め、又は漂然遊山弄水の旅に出で、只管御子様方の御出世をた のしまれる安楽境に、悠々自適の生活をされて、モー十年位は大丈夫だらふと御自分で も云はれて居られた相だが、忽然として示寂されたのが如何にもお心残り多い事であっ たらふと思はれる。
 
 石田様は鹿友会の創立者で、又最初の貸費者で、晩年迄も絶えず鹿友会の為めに、も っとも尽して下さった。タトヒ石田様の肉身は、此世から去られても、其法心は我が鹿 友会を永遠に保護して下され、鹿友会員の念頭には其功績を忘るる事が出来ないので ある。
 
 石田様に一度お目にかかったことのある人は、誰も高風なる人格に接して、自ら浄化 さるゝ様な気分に浸されて、之が栄爵に包まれ、学位に飾られて居るお方とは思はれな い程、極めて平民的であった。石田様は、育英事業の為めには、千金を惜しまれなかっ たが、日常の行持は頗る綿密で、派手なことは決してなさらない。今から三年計り前に 持って居られた銀時計が、日露戦争前、岩崎男の洋行土産で、又ポケットナイフは、独逸 遊学時代の物で、何れも三十年以上のものであった。
 
 凡て物はコー云ふ風に親切に造り、又持つ人も丁寧にすれば、何時迄も此の通りに使 へる、結局お互の利益であると訓へられたことを記憶して居る。
 石田様は、鹿角の話は大層なつかしまれ、人のことや村のことを聞くことを好まれた 。或る時花輪の学校にオルガンがあると聞いて、大層開けた者だ、と驚かれたことがあ った、ナンボ花輪でもありますよ、と申上げたら、昔は白墨が無くて、苦土屑クドカケで黒 板に書いたもんだ、と笑ひ興じられた事があった。
 
 法名は「眞禪院殿正心勝純居士」と申されるが、実によく人格を表現した、尤も適切 な文字だと思ふ。
 夜に入ってから、促されて仏前に皆様と心経、普門品など、生前好まれた和讃などを 唱へ上げて、心の奥底から御回向申上げ、雑踏してゐる銀婚式の夜を急いで、九時の下 り列車に乗った。(了)

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