鹿友会誌(抄) 「第二十四冊」 |
△亡友追悼録「和井内貞行翁」 ○故和井内貞行翁略歴 − 附十和田湖発展年譜 − 本籍地 秋田県鹿角郡毛馬内町柏崎三番地 寄留地 同 同 七瀧村上向字十和田 秋田県士族治郎右衛門長男 和井内貞行 安政五年二月十五日生 慶応二年(九歳) 毛馬内町泉澤氏の門に入り、漢学を修む 明治七年(十七歳) 毛馬内小学校教員となり、明治十年まで勤続す 同十四年(二十四歳) 工部省小坂鉱山吏員となり、十和田鉱山詰を命ぜらる 同十七年(二十七歳) 八月十和田湖免に鯉児六百尾を放流す、爾後毎年各種の魚児を 放流して、鋭意繁殖を計る 藤田組社員となる 同二十三年(三十三歳) 湖岸各所の尺余の鯉現れ出づ 養魚並に湖水使用願を秋田・青森両県知事に提出す 同二十六年(三十六歳) 湖水使用願漸く許可せらる 同二十九年(三十九歳) 小坂鉱山詰を命ぜらる 同三十年(四十歳) 始めて鯉の捕獲をなし、市場に販売す、脂肪多く味美なりとて注文 多し 藤田組を退き、養魚を専業とす 神戸市にて開会の第二回水産博覧会に活鯉を出品す 魚族繁殖法並に鯉の鑵詰調査の為、東京並に日光を経て関西地方に赴き、約三ケ月間 滞在す 同三十一年(四十一歳) 鱒の人口孵化法並に養殖法研究の為、長男貞時氏を日光中禅 寺湖に派遣す 旅館の新築竣功す、観湖楼と名づく − 湖畔旅館の嚆矢とす 同三十二年(四十二歳) 鯉漸く薄漁となり、事業の計画に頓挫を来たす 鱒人工孵化の計画を立て、之に全力を注ぐ 同三十三年(四十三歳) 日光中禅寺湖及近江琵琶湖より、鱒孵を輸入し孵化をなす 同三十四年(四十四歳) 河鱒五千尾を放流す、其結果は数年を待たざるべからず、支 出過多収入皆無、経営困難を極む 同三十五年(四十五歳) 北海道支笏湖産のカバチェッポ鱒卵を輸入し、大規模の孵化 を企つ 外人数名来湖、避暑鱒釣をなす 同三十六年(四十六歳) カバチェッポ鱒五万尾を放流す、世人皆其冒険に驚く 同三十八年(四十八歳) 日光鱒は結果良からざりしも、カバチェッポ鱒は群をなして 回帰し、一日の捕獲高一千尾以上に至る 凶作の一助にもと、湖畔住民に鱒を収穫らしむ、此代千五百余円ならん 同三十九年(四十九歳) 日露戦捷記念として追手に孵化場を新築す 鱒卵分与の注文漸く多し 父治郎右衛門氏、毛馬内町本邸に病没す 同四十年(五十歳) 緑綬褒章を授与せらる 妻カツ子病没 同四十一年(五十一歳) 東宮殿下秋田県下行啓に際し、特に拝謁仰せ付けられ、御紋 付御菓子を下賜せられ、親しく左の令旨を賜はる 「将来益々事業に精励し、国益を計るべし」 同四十二年(五十二歳) 東都十大新聞雑誌記者観光の為来湖、爾来十和田湖の絶勝は 天下に喧伝せらる 大正元年(五十五歳) 秋田県にて大湯道開鑿に着手す 同三年(五十七歳) 大湯道竣功を告ぐ(湖畔半里のところまで自動車、人力車の便を 得) モーターボート南祖丸始めて湖上に浮かぶ 警察電話始めて湖畔に通ず 十和田ホテル竣工す 十和田湖郵便局を新築す 日光地方より木地細工職工を聘して、湖畔住民に該業を伝習せしむ 同八年(六十二歳) 十和田鱒燻製を専業とせる東北水産株式会社成立す 同九年(六十三歳) 宮内省に出願し、石原次官に面謁し、十和田湖畔に皇室御用邸を 御設定せられ度、希望を陳べ、右に冠する調査を申請す 十和田遊覧自動車組合成る 同十年(六十四歳) 秩父宮・高松宮両殿下御行啓、親しく孵化場を御見学あらせらる 内務省に出願し、田村林学博士に面会し、十和田湖を国立公園候補地として編入せら れ度旨を具陳し、該調査を請ひたり 修養団鹿角郡支部長に推薦せらる 夏期中、孵化場を解放して、修養団並に秋田県中堅青年講習会に充つ、科外講演とし て実歴談を語る 五戸鉄道並に来満鉄道の新設、両院の採択する所となる 同十一年(六十五歳) 三月北海道に旅行し、帰来、病を得 五月十六日、特旨を以て正五位に叙せらる 同日 病没(法名開湖院和井内貞行釈居士) |