鹿友会誌(抄) 「第二十四冊」 |
△大日堂並に奥の院五の宮大権現略縁起 人王四十三代元明天皇の御宇、陸奥六十六郡の内十二郡を割分、出羽となる時に、勅 使下向、向澤尻の辺にて里民を召され、 此辺に国境に成るべきの山川有りや と、尋ければ、年寄り共打集ひて、米白川の起り、長者の由来を具寸に答ふ。是により て、鹿角は奥羽、比内は羽後と分かる、 人王四十四代元正天皇の御宇、美濃の国に醴泉湧き出づる、其処を養老滝と勅りす。 年号を養老と改元、又諸国司に勅ありて、 往古より国々醴泉湧出でたる霊瑞あらば、其実を奏聞すべし、 となり。 茲れに因り、 当郡米白川水上に昔日、醴泉湧出で、大日霊の神の示に依りて、其の福を得て長者と なり、其娘め美女にして内裏へ召され、継体天皇の御后の員に備へられ、其縁に依りて 、末世後紀に大日霊の神社御建立之れ有る趣、 奏しければ、公卿詮議有り、 醴泉湧出るは、天神地祗の感応に依てなり、是れ倭国の幸ひ、帝徳厚き故なり、 とて、継体天皇壮健し玉ふ大日霊の神社、再興あり。 導師として行基師の下ださる尊像は、師の意に任せ彫刻すべし、と宣旨あり。 師、小豆澤着の夜夢に、一人の異なる人来り、 我れは、此の東の嶽に住む者なり、尊像を作り、鹿角郡小豆澤村・長牛村・比内郡獨鈷 村、三ケ所に立せ玉ふは、普く人民を救の為めなり、疑ふ事なかれ と云て、去り給ふ。夜明けて其里の人々に夢を委しく告げ、 東の嶽に何人の住み給ふ と、尋ねければ、里人答て、 この東の嶽は、継体天皇第五の皇子、登山し玉ふの霊場、前の嶺は、宮の御乳母にて 後に医王善神と号す と云ふ。師、皇子なる事を始めて覚とり、尊敬の心尚止まず。 国司、宣旨を蒙り、郡中へ下知ありて、人夫を集め材木杣取りして、九間四面、両郡 の社堂茲に於て始て成る。依て大日堂とす。五の宮の皇子を五の宮大権現と崇め、奥の 院となし、大いに祭りを整へ、風土の舞楽を奏し、其式里俗に伝へ、後の世に至り、五 ケ村より年々例祭に舞楽人三十五名出る、往古より伝来の木面十二面・獅子頭二体、今に 存在す。是れを三ケ村分配して預る。 偖、行基師、大日堂造営尊像彫刻成功の旨奏しければ、勅使給伶人、下向有りて、月 毛の神馬を引かせられ、篤く報賽あり、此の神馬、大里村にて預る由。 (然る処、明治四年神仏混淆区別をして、奥の院五の宮を五の宮神社とす、大日堂復古 して大日霊貴神社と改む) |