鹿友会誌(抄)
「第二十三冊」
 
△亡友追悼録
○豐口甚六君
 明治元年三月 毛馬内町に生る。
 明治二十三年九月 鹿角郡々役所に奉職。
 明治三十三年十月 上京、逓信省に奉職。
 明治四十三年七月 渡台、鳳山医院に奉職。追て該医院は阿侯(糸偏+侯)に移り、 阿侯(糸偏+侯)医院となり、其後、屏東医院と改称。
 大正十一年三月二十九日 台湾屏東医院に在職中、永眠せらる。享年五十五歳。
 
○甚六さん   小田島樹人
 甚六さん。豐口さんでもいけない。豐口君は勿論いけない。名前を打ちつけに呼ぶ事 が、仮令、長者に対する礼でなからうとも、私は幼さい時から、呼び馴れた名前をその まゝ、甚六さんと呼ばうと思ふ。 − その甚六さんとも、もう未来永劫、会ふ機会が無 くなった。
 
 私が物心ついてから、親身に世話になった人を数へて見ると、両親や兄弟や乳母を除 いて、先づ第一に指を折られるのが、甚六さんである。五つ六つの頃の思ひ出を書きつ ける事は、限りある紙数では、迚も許されまいから止さう。今は亡くなった弟共まで入れ て、私の兄弟の半分は、甚六さんの顔さへ見ると、首や腕へぶら下って、その滑稽を交へ た当意即妙のお伽噺を聞かせる事を強要した事は、その中でも忘れ難い思ひ出である。 そして、面白い甚六さんのお噺に由って、私達は、子供心に色んな羅曼的な空想を描く 事を覚えたのである。
 
 十二三の頃の私は、兄のあとを受けて、甚六さんから英語と数学とを教はって居た。英 語は兎にも角にもナショナルの三をあげて、ロングマンやユニオンをかぢりかけたし、 数学は算術を一通りやって、代数の一次方程式まで進んで行った。
 其の頃、甚六さんの門を叩いて、教へを受けた連中には、期間が短かかったにしろ、 花輪の木村國手、尾去澤の宮城校長、麻布笄の小田島校長どが居る。皆んな年が若かっ た。皆んな何かしら希望に燃えて居た。冬の夜更けの、からっ風の音を聞きながら、炭 火がカンカンおこったテーブルを囲んで、薄暗い釣りランプの下へ頭を集めつゝ、一生懸命で It is a dog や (a+b)2 = a2+2ab+b2 などをやった頃の心持は、何んと懐しい思ひ 出の一つであらう。今の中村高女教諭の梅子嬢などは、其の頃三つか四つで、まだころ ころと遊んで居た。
 
 飯倉の石田の二階が目に浮ぶ。中島織之助君、關善太郎君、死んだ弟の三郎へ、私ま で入れて甚六さんのお世話になりながら、学校へ通ったり、試験の準備をして居たりし た。そして、その年、私は小田島信一郎君や關達三君と一緒に、方々へ別れ別れにはな たが、高等学校の門を潜る事が出来た。
 甚六さんは、逓信省へ通ふ忙しい身を持ちながら、何くれと親切に世話して下さった 。思へば、それもこれも皆、甚六さんの賜物であったのだ。
 
 台湾へ行かれるやうになってからは、無精者の私は、年始状位をさし上げる位で、忘 れるとはなしに、疎遠に疎遠を重ねて居た。併し、それも皆、もう一遍会へると思って 居たからである。何年無沙汰を重ねて居やうとも、会って語れば、昔のまゝの甚六さん を見出し得ると思って居たからである。
 今年は帰って来ると云ふ事を、羽根澤のお宅から聞いて居た私は、心窃かに色んな 事を計画を立てゝ、帰国の日を待って居たのである。それもこれも、今は煎餅のやうに 打碎かれて仕舞った。
 
 甚六さん。誰があれ位の年頃で、あれ位真面目に、自己を鞭撻する事が出来やうぞ。 四十を越した男の心理は、人生に於て、最も悪摺れのする、云はば最も横着になる時代 である。而も甚六さんには、決してそんな悪落付が無かった。甚六さんは、須臾の間も 自己の反省を忘れなかった。そして、真面目に煩悶もし、修養もされて居た。
 まだ乳嗅い私達を相手に、色んな議論も上下された。思へば、大勢の家族の糊口を支 へながら、決して自分の修養をおろそかにされなかった事すら、已に敬服に値するのに 、況して其の間に、親となり、兄となり、友達となって、心から後進の為に尽すと云ふ事 は、恐らくは、甚六さんのやうな真面目な性格の持主にして、初めて出来る事であらう 。
 
 台湾にある十余年の間、その炎熱瘴癘の気は、よし甚六さんの肉体は亡ぼす事が出来 ても、その美しい性格の光は、決して、永久に亡ぼす事が出来ないのである。
 
  悼
 宵闇やひそかに水の花白し 樹人

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