鹿友会誌(抄)
「第二十三冊」
 
△亡友追悼録「川村直哉君」
○直哉さんのあたま   小田島信一郎
 直哉さんのやうな、思想的に、進んだあたまの持主が、花輪のやうな、刺激の少い、 山中の平和境から出たといふ事は、一種の奇蹟である。花輪の人達が、あのあたまを、 持てあつかひかねて、いろいろ、ひねくりまはした結果、終に、愛想を尽かされてしま ったのも、余りに、両者間の思想上に、距離があったために、一緒に進んで行く事が 、出来なかったためではあるまいかと思ふ。
 
 何時頃から、あゝいふあたまになったかといふに、アメリカに行ってからではないか と思ふ。勿論、アメリカに行く前からも、多少人とは、変って居たやうではあるが、ア メリカに行っても、あの物質万能の世界で、奮闘を試みてから、思想上に一大変化を 来したやうに思はれる。
 たゞ、不思議な事には、唯物的、功利的であると見られて居る、アメリカ魂には、余 りかぶれないで、却って、唯心的、宗教的方面に心が動きつゝあったといふ点である。
 渡米後に、私が貰った手紙には、何百通あるら知れないが、大部分は、直哉さんの理 想抱負を物語る心の記録であって、単なる通信や、報告などは、殆んど、数へるだけし かなかった。
 
 明治四十年の春、渡米してから、今年の二月、郷里で亡くなるまで、十五六年の間、 直哉さんと、私と親しく話をしたのは、中途で、日本に帰って来た時と、一昨年八月、 再び帰って来て、半年余り、私の家に滞在した時と、其後、花輪で会った時位のもので 、其余の長い年月の間には、始終、手紙を往復する事によって、心と心との交渉は、絶 たずに居た。そして、私は、直哉さんのために、どれだけ、啓発され、慰籍されたかわ からない。年齢上では、私の方が、兄貴だったが、思想上では、いつも、弟分であった 。
 
 欧洲大戦を一転機として、世界が、物質的文明すら、精神的文明に変遷しつゝあると いふ、学者の説を肯定するとせば、其物質的文明の最盛期に、而も、其物質的文明の中 心地にあって、来る可き精神的文明を予想し、憧憬し、一方には、物質を得るために、 肉体的労働に従事しつゝ、一方には、精神的修養に、努力して居ったといふ事は、時代 思潮を洞察するあたまの好さを示すもので、花輪人としては、一大驚異であるといはね ばならなぬ。
(一一、五、二〇)

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