鹿友会誌(抄) 「第二十三冊」 |
△亡友追悼録「西村惣一郎君」 ○西村君とその印象 佐々木彦一郎 西村君! 斯う言った時、私の頭に映ずるのは、十三四の頃の紅顔の美少年の君の姿 であります。私は西村君と小学校六ケ年、花輪の舘の学校で、共に机を並べた間柄です が、私が小学校を卒へると直ぐ南の国に去って、長い間帰省しなかったものですから、 西村君の中学時代に就ては、全く何も知りません。 大正八年の夏、久し振りで帰郷した時、体格堂々たる一青年に接し、あれが西村君だ と聞いて、驚いた次第でした。母校の校庭で催された聯合青年会の運動会があった時、 君は、花輪町の青年団を指揮しましたが、私も、その中に交って歩調を揃へた事なども ありました。それから撃剣の試合があり、道具に身をかためた凛々しい武者振りを見、 そして二段だか三段だかの腕前だと聞いて、再び驚いたのでした。 一昨年の夏のお祭りの夜、谷地田町事務所の中で、色々と世話をして居られたのを 見たのが、私の西村君を見た最後でした。 長い中学時代を隔てゝの、西村君の印象としては、記憶に残ってゐるのは、前にも言 ったやうに、無邪気で生一本な、そしてハキハキした美しい少年の姿であります。君は 、思った事を、心に蔵って置く事の出来ぬ人でした。それだけサッパリしてゐるのです 。よく子供同志のことで喧嘩をする事などがあっても、ある時は仲々猛烈で、相手を辟 易さしたものですが、済んだ後はそれは晴々したもので、何時迄もその事を根に持って ゐる事など決してなく、却って喧嘩したために、親しくなると云ふ風でありました。 私共の子供の時は、上手カミテと下手シモテとに分れて、両者が互ひに何かにつけて優劣を 争ったものでした。負け嫌ひな君は、何時も競争の衝にたって、奮闘するのが常でした ので、自然一方の牛耳を執るやうになってゐました。「鬼ごっこ」の時など、君が一度 目ざした人をば捕へる迄、追っかけるのが常で、何時だか、雪が沢山積ってゐる校庭を 、裸足になって追っかけた事があって、其の時の小さい君の姿が、今でもありありと目 に浮んで来ます。 君は、運動といふ運動は、殆んど何んでもやり、そして、それが人一倍にうまかったの は、君を知る人が斉しく認める所です。 花輪にスキーを一番初めに輸入したのは、私共の先生の志賀元八先生ですが − その 当時は、実に珍しいので、生徒が堵列して、先生の滑べるのを見たものです − 西村君 は、そのやうな当時としては最も新しいスキーさへも、卒先して練習された様に記憶し てゐます。 一時、日本に飛行凧と云ふものが非常にはやった事がありますが、花輪で一番さきに 大きな立派な飛行凧を揚げたのは君で、私共は見物に行ったものでした。 君の中学時代は、どんなにはなやかな男らしいものであったか − 恐らく美しい若い Hero として、君を見出す事が出来たらうと想像が出来ます。剣道に於ける君の腕前は、 天才的のものであった事と思ひます。此の方面に関して、君の性格を色どる色々な面白 い挿話もあるでせうが、小学校卒業以後、互ひに離れてゐて、交際しなかった私には、 之等について、何も知る事が出来なかったのを、本当に残念に思ひます。
(大正一〇、五、一〇)
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