鹿友会誌(抄)
「第二十三冊」
 
△亡友追悼録
○大畑茂千代先生   小田島興三
 考へて見ると、それからもう十年も経ってしまった。それは、私が四中へ入学した許りの春の 一日、二三の友人と校庭の杉の木の下で話し合ひ乍ら、何気なく杉の皮を剥いてゐたの であった。その時、軍服を着けた体操の教官が、私の前へやって来て、「君は杉の皮を 剥ぐと、木が死ぬのを知らんか」と怒鳴った。私は恐縮して引下った。
 
 その翌日 − たしか神武天皇祭の日だと思ふが − 鹿友会の大会が、上野の東照宮の 側の旗亭で開かれるといふので、兄に連れられて行った。桜樹の下で、不忍の池の水面 を眺めながら、庭をブラブラ歩いてゐると、昨日私を叱った体操の教官と、デッチリ会 ってしまった。
 「ヤア君カ」「アッ先生」とお互に顔を見合せて、先生は吹き出したが、私は面目無 さに赤い顔を下げた。それが、大畑茂千代先生だった。
 
 吾が大畑先生は、四中に於て「黙さん」と呼ばれてゐた。それは始終黙々として、号 令をかける時以外に殆んど口を開かなかったからによるが、又口を開けば鹿角弁丸出し であったので、黙さんは杢さんに通じてゐたのだ。
 
 鹿角弁丸出しの面白い例がある。ある体操の時間に先生は、「上体を前に曲げ」の代 りに「皆コマレ」といふ号令を下したことがあった。号令一下、生徒等は真誤ついて、 呆然たること少時。やがて、先生は第二の号令を下した。「ツックバレー、オイッ」 。号令に応じて、膝を深く曲げたのは、私一人っ切りであった。
 先生は、体操の時間に木馬を跳ぶことがお好きで、「黙さんの木馬跳び」と言って 、生徒達は興がった。
 
 先生は試験の時に、監督に来ると「君達はくよくよしては駄目だ。さっさと答案を出 して遊ぶんだ」と言はれたものだ。そんな気風が、四中の一点も忽せにせぬ主義に合は なかったのてはなかったか。都下のある新聞が、四中の教師達の間の内訌を発いた時、 先生は校長に反対せる一人として書かれてゐた。その為かどうか知らぬが、間も無く先 生は、四中を辞して仕舞はれた。
 体操の時間になると、生徒達は寂寥を囁き合った。校庭の木馬の覆ひを取らずにゐる ことが、二日も三日も続くのであった。
 
 先生は其の後、暫く鹿友会に御顔を見せて下さらなかった。そして私は、先生が昨年 の秋、此の世を去られたことを、会の記録簿から告げられた。
 四中の同級会が催されたとき、私は友人達に、先生が失くなられたことをつげた。一 座は暗然として「黙さん」の死を衷心から哀悼したのである。

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