鹿友会誌(抄)
「第二十三冊」
 
△亡友追悼録
○内田愼吾翁   小田島徳藏
 翁は、内田九兵衛畜孚の三男にして、天保九年十一月、尾去澤に生る。幼名、武八郎 。十三歳にして盛岡に出で、大伯父工藤玄良方に寄寓し、文武の諸芸を学ぶ。安政五年 、一旦帰郷前、銅山御用見習として出仕せしが、元治二年、同役川口理仲太氏と共に、 特に撰抜を蒙り、藩命に依りて、当時の開港場たる横浜港に出張し、アメリカ人、フラ ンス人、ポルトガル人に就いて、主として山相の学を研鑽する事数年、慶応二年、召さ れて江戸に帰り、最近智識を以ってって公儀御用を拝し、足尾銅山を見分す。当時、同 鉱山は殆ど廃山の非運に臨みしが、翁等の視察指導によりて、再び鉱脈を発見し、現時 盛大の基を啓けりと云ふ。
 
 後、帰郷し、再び尾去澤鉱山に出仕せしが、明治元年、隣藩討入の際は、花輪隊二番 手大砲方頭取を命ぜられ奮戦せり。
 維新後、尾去澤鉱山の経営者たる小野組の依頼を受け、岩手、宮城、山形三県下に 於ける同組稼行の諸鉱山を巡回監視し、傍ら、新山の発見に力むる所あり。暫く盛岡に 滞在せしも、幾もなくして帰郷す。
 其の後尾去澤鉱山より重聘を以って、支配人格として採鉱方出仕を追従せらるゝこと 二回に及びしも、何れも長く出てゝ仕へず、専ら家道に励み、子孫の教育に力を注げり 。
 
 然れども、斯界の長老にして多年巡視の経験上、奥羽地方の諸鉱山の状況の如き、殆 ど暗記する程なりしを以て、鉱業家等斯界に関係あるの士、来りて所説を叩くもの頗る 多し。
 明治二十七年、推されて尾去澤名誉村長となり、自治の為め尽瘁されしが、同二十九 年辞任。爾来全く外に出でず、専ら書冊に親み、児孫を愛撫し、家禽の飼養に任して、 悠々風月を楽めり。
 
 長子清太郎、弱冠にして工学士となり、生野金山に職を奉ぜしが、翁其の志を継がし めんと欲し、巨資を投じて独逸に留学せしむ。帰来、斯道の新智識として諸鉱山の開発 に功あり、
 二男平三郎は和仏法律学校を卒業し、尾去澤村長を奉ずる事数年、後、県会議員とな り、(秋田)県政界に名を知らる。
 三男守藏は法学士にして、朝鮮京城に弁護士として嘖々の名ありしが、最近は平壌地 方法院に検事の職を奉ぜり。
 
 翁、平素頗る頑健なりしが、老来健康を害し、病床に親しむこと数年、大正十年五月 十一日、遂に鴻焉として逝かる。行年八十四歳。翁、寛宏にして能く人言を入れ、謙遜 にして敢て其長を誇る事なかりしかは、人皆喜んで服し、為めに家名を益々重からしむ るに到れり、又一徳者と云ふ可し。

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