鹿友会誌(抄)
「第二十二冊」
 
△亡友追悼録「村山福太郎君」
○思ひ出話 …村山君の事ども…
 村山君は、初めから小坂の学校には入らずに、花輪に少し居た。中学校に入る迄は、 級が違ふのでよく知らなかった。入学の時は一所であったが、何番であったか一寸思ひ 出せない。
 『九番だ。それが三組に別れて、いつも壁に頭をつけて居たから、壁頭の尊号を奉っ たものだ。頭で思ひ出したが、実に大きくて、店にないから、何処から出したか、巡査 の帽子を被って居た。やっぱり頭の大きい人はできると見える。殊に、数学、英語はお 得意で、我々不出来党が難題を持って教授を乞ふに盛んに行ったものだ。ところが、彼の 難問を考へるくせが一つあるが面白いんだ。問題を凝視しながら、必ず右手の食指を鼻 の下に持って行く。さうやったらどんな問題でも氷解と来る。』
 
 『よく片町の越山の二階に末席組が集まったが、一向彼は勉強して居る風が見えなか った。いつでも文学物ばかり読んで、大いに論じたり、聞かせて呉れた。殊に試験の時 と来たら、人の勉強するのを笑ひながら、盛んに将棋をやって居たが、又上手であった 。それにピンポンが上手で、満州の医学堂の大写真帳の娯楽室にも、あの左ッコでやっ て居るのが出て居た。向ふでは、テニスも盛んにやって選手で、旅順あたりへ度々試合 に行ったと言うて居てあった。酒も煙草も呑まずに、芝居狂で、芝居の事なら持って来 いの劇痛であった。』
 
 『ところがその好物が面白い。塩引があれば何も入らない程で、よくそればかり食べ て居た。それに飯を食ふに長いったら無い。よく牛のやうだと言って笑ったが、よほど 体を考へて大切にして居たらしい。体は別に悪るい方ではなかったが、脚気はよくやっ た。始めは寄宿舎に居たが、そのために通学してあったかも知れない。』
 『試験問題の的中は神様のやうで、よく選んでもらって、○をつけて、そこばかりを 暗記したが、大抵は的ったが、時には失敗して参った事もあった。よく後で笑はれたも んだ。彼の笑ふのは実に皮肉で、人をよく観破して居て、ちょいちょい弥次って、独り 悦に入って微笑して居た。』
 『然し、謹直で、真面目で、親孝行の点は皆敬服してあった。よく友達の相談にも力 を入れたから、皆で敬慕したが、何か事があっても、決して表面に立ったり、中心には なりたがらなかった。』
 
 『大館は連続の特待生で、卒業の時は二番で、知事から賞品も賞状ももらったが、そ の賞状に後から話がある。それが又よく性質を表して居る。なんでもお父さんか誰かが 、それを額に入れてかけて置いたら、帰ってから見て、そんな物が何んだ、何故そんな ものをかけるかと言うて、それを取って、油絵とかを入れて掛けて置いたさうだ。』
 『そんな事は大きらひな方であった。医学堂でも、いつも首席を争うて、出る時は二 番で出た筈だった。然しどうして医者になる気になったらう。』
 『いや、始めは高校を受ける積りであったが、一日か二日ばかり期日に後れて、東京 の予備校に居る内、南満医学堂の募集が出たので、ほんと試験的に、軽い意味で受験し たら、見事合格したので、たうとう入ったとさうだ。』
 
 『ところが、お父さんがこんな事を言うて居た。小さい時から医者の事が好きで、い つか小供の時、市場へ行って鶏を買って来たが、それは病鶏だので、お母さんは見るな り怒って、馬鹿だと言ふたら、平気で済して、わざと買って来た、と言うて、それから は箱を造るやら、薬をやるやら、いろいろなことをして療治しながら、必ず治して見せ るといきまいて、朝から晩まで鶏にばかりかゝって居たが、遂ひ死んだので、今度はそれ を解剖して、熱心に内蔵などを検べたりして居た。よくこんな事ばかりして居たって、 やっぱり医者気はあったのだ、家は商家だのに、商売は好きでないとは前から言うてあ った。』

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