鹿友会誌(抄)
「第二十二冊」
 
△亡友追悼録「村山福太郎君」
○思ひ出話 …村山君の事ども…
 葬列は、シトシト降る雨の中をお寺に着いた。私は生前の彼と、棺の中の彼を、読経 のうちに一人思ひに沈みながら考へた。人の死に会ふ度に繰り返す事ながら、生と死を 考へながら − 。そのあいだから、花田君の弔辞は悲しげに、又、老いたお父さんに涙 を流させた。
 
 村山君は、薄幸な、気の毒な人だ、死なれるお父さんは勿論だが、死ぬ彼にはどんな であったでせう。帰省した当時は、髪を分けたり、 眼鏡をかけたりして、お医者さんらしくなってあっ た。そして今後の大抱負などを語って居た。卒業してすぐに大連の療病院の内科に入っ て、重に伝染病をやったが、それもたた三ヶ月です。四月に卒業して、六月に全科試験 にパッスして、七月から奉職して十月に病気で帰った。コレラが大流行で、昼夜兼行で 自働車を飛ばして、寝食も忘れて、熱心に努力せしが、之れらは病の因をなしたらしい 。やっぱりその道に命をさゝげた人だ。医者だけれ共、始めは自分では死ぬと迄は考へ て居なかった。沼津、熱海でも駄目で帰省した。その時は元気で話をして居た。
 
 『満州に居て内地へ帰ったら、住む気はしない。男はよろしく発展すべし。この病院 、佐賀県庁衛生課、川崎造船所にど沢山に招かれて居るが、治ったら又出かけやう。』
 『神と言ふものは、必ず存在する。精神は肉体の各部にある。』
 『一年の時、ロシヤ人の足を大手術して、ボレーボレー(痛い)を連呼されて、自分 も卒倒して、朝に気がついたら、寝台の上にいて、赤酒があった。』
 『よく学生はやるが、支那人の墓を掘って、人骨の標本を取りに行って、見つけられ 、まだ生まな人間を抱へて逃げて来て、寄宿舎の窓から捨てた事がある。』
 
 いろいろな話を元気で語った。そして人なつかしいと見えて、友達が行くと非常に喜 んで、誰も居ないと二階から淋しさうに下を眺めて居た。
 然し喀血するやうになってからは、死を覚って、父も母も側へは寄せなかった。そし て、お母さんが心配するのを、「今に死ぬのも知らないで、」と、淋しく、哀れむやう に薄笑って居た。両親が、縁起が悪いと言うて怒るもかまはずに、「俺が死んだら、親 類はわかって居るが、友達は、これこれに通知して呉れ、」と言ふて、無理に手帳に書 かせたさうだ。そして死後を汚したくないと言うて、死ぬ前日から、一切食物を取らな かったさうだ。よほど悟って居たらしい。
 
 かうして彼は、人生の春まだ浅く逝った。死ぬ人も失った人も、泣くに泣かれぬで あらう。よく町を通る度に、店に坐って居るお父さんお母さんを見ては、お気の毒でな らない。やうやく一人前になって、これからと言ふ時に、颪に会った咲き初めの花のや うに散ったのだから、お父さんを見る度に涙が出る。まして同じ頃の友達を見たらどん なだらう。彼の思ひ出話を拙ない筆で書かうとは思はなかった。ましてお父さんの心は ……。
 
 思ひきや残るかひなき老鶴の 子を先立てねに泣かむとは
 思ひきや五十路余りの坂越えて この別れ路に迷ふべしとは
 終に行く道とは兼ねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりけり
 
 誰やらの古歌にこんなのがある。それがお父さんの心でせう。
 では、なき友の瞑福を祈って、筆を擱きます。

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