鹿友会誌(抄)
「第二十二冊」
 
△亡友追悼録「戸川鑛郎君」
○戸川鑛郎君の印象   樹人生
 鑛郎君の事を臆ふと、いつでも大きな犬を連れた丈の高い、丈夫相な血色をした偉丈 夫が目に浮かぶ。何んでも明治四十三四年の頃と思ふ、その頃私の家は青山の高樹町に あって、鑛郎君のお宅とは遂一丁と隔てない近さにあったので、隙がある度にお邪魔を しては、夏の宵など、彼の風通しのいゝ二階に寝そべって、麦湯を貪り乍ら、お宅の方 の御迷惑をも顧みず、雑談をしたり将棋を指したり、偶には一時二時頃までの夜更しを する事さへあった。
 
 其の頃の鑛郎君は慶応? へ通って勉強して居られた様である。人と語るに城壁を設けず、豪放な笑声を立て乍ら 、飽までも語り耽る点は、厳父の美点をそのまゝ受け継いで居られた様に思ふ。其の後 戸川家は目黒の方へ引越される事となり、私の家も国許へ引払って、往来が自然疎遠に なるに連れ、鑛郎君の消息についても私は余り多くを知らなかった。何んでも静岡の辺 に居られて活動されて居る事と許り思って居た。然るに意外にも……真に意外である、 私が人伝に同君の訃を聞いたのは、同君が亡くなってから余程経ってからであった。あ の丈夫相な元気な方が、二三年相見ぬうちに幽明境を異にするとは、誰が思ひ掛けやう ?
 
 先に修二君を喪はれ、次で鑛郎君と訣れて万斛の悲しみを胸に堪へ乍ら、而も談笑常 の如き父上を見る度に、私は何とも云へぬ悲痛の感に胸を閉されるのである。
 修二君が房州に在って病革まるや、常に枕頭に在って周囲の人の迚も及ばぬ看護の任 に当った方は、阿兄の鑛郎君である。修二君も瀕死の床中から「兄さん兄さん」と云っ て、死ぬまで頼みにされて居た相である。以って其の兄弟の情の如何に麗はしかったか は、察するに足るではないか?
 さう云へば鑛郎君は、浮世の事は何事も知悉して、誠に人情の深さうな人でもあった 。
 
 鹿友会も存在が久しくなるに従って、色んな天賦の美点や才能を有し乍ら、夭折され た会員が次第に多くなつた。鑛郎君も確かにもっともっと活かして置きたかった一人で ある。

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