鹿友会誌(抄) 「第二十二冊」 |
△亡友追悼録「内田四郎君」 ○四郎さんに申上げます 石井末太郎 美しい草花も枯れました、錦織りなす木々の葉も散りはてました。灰色の空はさらぬ だに、人の心を沈めます。私は物の怪に襲はれた様に感じましたのは、四郎さんが死ん だと言ふ声であります。最初に耳を疑ひ、次には事の真偽を疑ひましたが、悲しい哉、 夫れは事実でありました。 なれ共尚夢であれかしと願ひましたが、今日となりましては、夫れも叶ひません、活 達で多芸な四郎さん、老幼男女の別なく親しく愉快に話さるゝ四郎さん、貴公子の如き 四郎さん、世間ではめいめいの記憶を呼び起し、とりとりのお噂を致して居ります、善 い人であったと云ふ事は、万人の等しく口にする処であります。"よいひと"、此の四字 は貴方の人格を云ひ尽したものと思ひますが、私は神の如うな人として終生忘るゝ事が 出来ません、只今最後のお別れに臨み、偽りなき心を以て、平素御疎遠のお詫もし御礼 も申上げたいと思ひます。 四郎さん貴方が、若い青年いや少年時代とも言ふ可き時、私は生活難に陥りました、 其際貴方は或人を介して金員を贈られました、当時の貴方とては確かに大金でありまし た。 私の驚きは何うでありませう、申すも失礼でありますが、其の時貴方の実家は御裕福 と申す時ではありませんので、深く御厚意を謝すると共にお断りを致しました、処が夫れ は、山の父上から小遣にと貰ひ受けた者で、決して心配な者ではない、遠慮なく何かの 用途に立てよ、との再度の仰せもあり、仲に立たれた人も御厚意を無にせざる様申され ますので、他日の御報恩を心に期し、泣いて御詞に従ひました、何といふ潔き尊き御心 でありませうか、光陰矢の如く、はや十余年の昔となりましたが、今に御報恩の機会も なく、不相変はかなき生活を致て織ります、誠に申訳ありません、何うぞ御許し下さい 。 其後貴方は東京に御出になり、ときどき御帰宅の事は承知しましたが、一度も御伺ひ も致さず失礼してゐました、私は非常に偏屈な人間でありまして、人との約束を破り、 又人の期待に背く時は、とうしても進んでお会ひ申す事が出来ません、用事の為め、或 は偶然に御会申す事がありましても、そこそこにお別しますので、まゝ誤解を招く事があ ります、貴方にも忘恩の徒と思はれはしないかと、平素心配して居りましたが、貴方は 私の性格を了解せられ、昔に優る御同情ある事を知りましたので、安心して居ります、 夫れは最近、物価騰貴の厄難に逢ひ、子供を中学校から退学せしめました時、幾分の補 助はいとはぬから、在学の方法なき者かと御話ありました事を承知いたしました、私は よくよく将来を考へ残念ではありましたが、退学の事に決心致しましたので、御芳志に 浴する事が出来ませんでしたが、重々の御同情には申上ぐべき詞を知りません、貴方の 御家は、御裕福とは申ながら御家族たる貴方が進んで斯る事をせらるゝは、普通の人と して決して出来ない者と信じます、貴方は色々の人を御世話なされた様でありますが、 私は知ると知らないとを問はず、一同に代って篤く御礼を申上げます。 四郎さん貴方は、御父上に別れ、御兄弟に別れ、会者定離、生者必滅の道理は深く御 悟りになった事とは思ひますが、将来なすべき事業を考へ、愛するお方、幼き御子の行 末を思ひ、老ひたる母上、御祖父さんのお心を慮りつゝ旅立つ時のお心は如何でありま した、天命とはあきらめつゝも、定めし定めし御名残り惜しと思はれた事でありませう 、お察申上げます。誠に同情に堪へません。 併し四郎さん、将来なすべき事は、例ば百歳の寿を重ぬるも尽きる時はありません、 貴方は此世にある間、短かくも人として なすべき凡てを為したのであります。身は帝国の将校となり、平素の職務は会社として 欠く事の出来ぬ重要人物となり、世に処し、人に対して神の如き仏の如き愛を以って終 始されました、世に真に徹底した、博愛慈善の方を求むるならば、夫れは貴方であると 言ふ事が出来ます。釈尊や基督が声を涸らし血を吐いて叫んだのは何の為めでありませ う?、貴方の如き人を実現させん為めであります。 四郎さん、果実も熟するに従ひ落ち るではありませんか、貴方は荒き風に吹き落された青い実ではありません。完全に成熟 し、露と共に静かに落ちた美しい果実であります、此後、新しい芽を出し、幹となり、 花となり、無類の美しい実を結ばるゝ事を私は信じて疑ひません。 申上度き事は尚沢山ありますが、これでお別れいたします、希くは安らかにお寝りあ らむ事を祈ります。左様なら。 (附記、右二文は内田君の霊前に供へられたる弔詞なるを茲に碌したるものなり。) 「想起す故人十三氏」 |