鹿友会誌(抄)
「第二十二冊」
 
△亡友追悼録
○内田四郎君
 君は、本会賛成員故小田島由義翁の第五子たり。後、入りて内田家の嗣となる。君、 資性豪邁にして、而も円転闊達、よく世故を裁し、行くとして可ならざるなきの有様な りき。本会亦君に負ふ所頗る多し。今幽明境を異にして君なきを思へば、転た寂莫を感 ぜずんばあらざるなり。今其生前を録し、以て追懐の資に供せんとす。希くは芳魂永へ に安らかなれ。
 
○内田君の略歴
明治二十二年七月 花輪町に誕生
同二十九年四月 花輪小学校入学
同三十七年四月 盛岡中学校入学
同四十二年 青山学院入学
同四十三年十二月 一年志願兵として弘前歩兵第五十二聯隊に入営
同四十四年 内田家に入籍
大正三年 陸軍歩兵少尉に任ぜられ、尾去澤在郷軍人分会長として活動
同四年 電気化学工業会社に入社
 同九年十二月六日 東京に於て永眠せらる。享年三十二
 
○弔詞   阿部藤助
 四方の山々白雪に蔽はれ、時ならぬ雨も降りしきり、物悲しき本日、春秋会同人貴 下に弔詞を呈さなければならぬとは、何と云ふ悲しいことでありませう。
 四郎さん、特に四郎さんと呼ばして下さい。我々は御互名前を呼び合ふ程親しかっ たのです、凡につき隠す処なく打ち明ける間柄です、我々は人数こそ多からざれ、又職 や務は皆違っては居るものの、互の心に通ふ、或ものは到底言葉を以て現はし得ない強 いものでありまして、一致協力、我を忘れて団結する同志であります、然るに突然貴下 に亡くなられ一角が、壊れたやうになりました、噫々何故貴下は逝きましたか、老幼不 常は世の習とは云へ年が最も、若き貴下が一番先になるとは何といふ神の悪戯でありま せう。
 
 貴下が御病気で入院せられたと聞き、我等一同、神かけて御平癒を祈りました、其後 快方に向はれたと承り、陰ながら喜で居りましたに、突然の凶報、実に驚きに堪へませ んでした、然し平素達者な貴下のこと、誤報にあらずや夢なれかしと祈りたりしも駄目 でした、一昨日大瀧駅に御迎して、変り果てた貴下に対し、悲嘆に沈む御家族に接して は、万事已に休す、只涙の外ありませんでした、力で出来るものならば、引き戻しもし ませうが、医薬も看護も祈りも、人力の及ぶ限りをつくして効なく茲に至りたるは、只 運命とあきらめむる外ないで御座いませうか。
 
 四郎さん、貴下は幼い頃から頭脳明晰、衆に優れ、盛岡に学び、東都に遊び、学成りて 軍籍につき出でゝ、電気化学工業株式会社に職をとられて居ました、貴下は才気縦横、而 して円満高潔の人格者でした、何れに行くも可ならざるなく、何につきても適せざるな く、老幼男女、何人に対しても親切懇篤、一度会ひたる人は、貴下の徳を慕ひ居るのであ ります。
 貴下はまた趣味の人でした、多芸多能、通ぜざるものなしと云ふ次第でした。
 
 あゝあの立派な体格、あの堂々たる風采、心身共に備はる好男子の典型たる貴下を、 未来永久再び見ることの得ざるを思へば、実に悲痛に耐えません、然し生あるものは必 ず死あり、悲しむを止め、我等同人共に倶に奮闘努力、貴下の分も為し遂げませう、噫 、さらば四郎さん、安らかに御休みなさい。
 御別れ致します。
  大正九年
     春秋会同人

[次へ進んで下さい]