鹿友会誌(抄) 「第二十二冊」 |
△亡友追悼録 ○死んだ阿部君と櫻田君 緑子生 今年程尾去澤に取って、新春早々に死亡者の多い年も珍しいが、又小壮有為の人で物 故された事も珍しい。高橋村長さんの御話によれば、一月から二月半迄に廿名以上を算 すと云はれた。誠に伝染病流行とか、戦争でゞもなければあまり聞かない事である。殊 に魁された内田四郎さんの死は、村民に非常のショックを与へ、先頃まで見せてゐ た林檎にやうな豊頬、日廻のやうな笑顔を到底忘れかねさせると同時に、人生の無情を しんみり味はさせられて、一種の恐怖心をさへ懐かしめたのである。 間もなく阿部守巳君の死は伝へられ、其葬儀が吹雪荒るゝ日、かの軽井澤の山中から 繰り出されて、学校の隣の大慈庵で営まれた。其雪の上に印した会葬者の足跡の未だ消 え果てないまに、又々櫻田潔君の悲報が伝はったのである。而も阿部君にしても櫻田君 にしても共に病褥にある二旬ならずして不帰の客となったので、伝へ聞いた故旧知己は 茫然として何が何やら狐にでもだまされたやうで、先に四郎さんの死によって無情を 味はされた吾々は、真に何んだか自分の頭の上にも不可解の妖雲が蔽ひ冠ぶさって居る やうで、悲哀を通り越して、今にも面と「死」と対ひ合ってるやうな戦慄を感ぜずには 居られなかったのである。 勿論阿部君といひ櫻田君といひ、其性格や、生活の経路に非常に異った点があったけ れども、東京学生時代から郷里の就職時代、いづれも一種のなつかしみを持たせる交際家 として、人の難事を見てはだまってゐられない侠者として、円転闊達の才人として、到 底吾々同志の忘るゝ事の出来ない強い現在を、只死んだといふ声で、記念物語として埋 めてしまうのは、無理であるからである。 阿部君の明治義会中学に通学して、小石川の竹早町の掀天窟で梁山泊生活した時代な どは、慥に浪六の当世五人男の面影にそのまゝであった。本郷の同難塾時代の破悶将軍 といったら、必ずしも阿部君の苗字や名前を言はなくても、あの当時の鹿友会は油然と して、それからそれからと回顧の蔓がはびこるだらうと思ふ。一旦父上を失うて、学を 抛って村の収入役となったが、君の性として然も有為の材として耐ゆるものでなかった 。更に秋田市に中村木公先生の新聞に行ったりなどして、遂に小坂の買鉱のお役人とな ったが、昔ながらの元気は達磨のように面壁九年か十年、君は自分の覇気を差し出して 鉱山の係長の栄禄と交換したのであった。 而も係長は、課長と累進すべき運を担って不帰の客となられたのである。阿部君に付 ての逸事や、奇談は旧知が剪燈炉を囲んで二三夜にして尽きるものでない。今は「死」 と云ふ恐怖で頭が妙で、書く元気がないが、次回に大いに破悶将軍の面影を伝へたいと 思ふ。 櫻田君に至りては、阿部君以上に悲痛の念にかられて、丁度赤い椿の花がぽたりと落 ちた感がする。この未来ある温い春の日になぜ蓑えただらう。君が小学校を卒業して、 永らく当尾去沢鉱山の電気に奉職した頃は、若い者として同輩より驚嘆の目をみはら れたものだ。遂に選ばれて三菱の留学生として工手学校に入り、苦学業を終へて帰任し た頃は、その才に、その学を添へて新進の栄誉を担うて、新設碇の発電所の担任を命ぜ られた。規模は小さかったけれど、機械の最新式を以て名高いこの新設工場に、新進気 鋭の君が当ったので、慥に羨望の的であった。其後病を以て職を辞し、一時出京し、更 に静岡に赴いたが、その後の君の生活は実に轗軻落托、言ふに忍びない。 令弟文雄君には先立たれ、一時少康を得た病魔が再発して、職を棄てゝ横浜の親戚の 病院で加養され、昨年漸く元気が恢復して、今度こそ幸多き職を得て、大いに駿足をの ばさんとして遂に起たない。僅かに四十二(慥か)で白玉楼中の人となってしまった。 想へば阿部君といひ、君といひ、五分の芯で大いに明く点じた燈火は、早く暗黒とな り、吾々のやうな凡くらな二分芯は、まやまやして消えないでくすぶってゐる。えらい 枝にはえらい実を結ばせ、つまらない木にはつまらない花を咲かせたらよささうだが、 神様は何か深いお思召があるであらうか。 いづれにしても、尾去澤のためにかゝる有為の人物を二人も三人も失ふた事は、痛恨 に堪へないことである。 |