鹿友会誌(抄)
「第二十二冊」
 
△亡友追悼録「川村俊治翁」
○思ひ出   じふじらう
 川村俊治翁の逝去について、まづ思ひ浮ばるゝのは西片町十番地時代のことで、唐橋 の近く、大椎の木から森川町通りへ出る、ダラダラ坂のおり口の処、昨今は全く様子が 変ってゐるが、当時同宿の仲間は、大里武八郎さん、故佐藤良太郎さん、田村定四郎さ ん、樋口定三君に故中津山延徳さんと云ふ様な顔ぶれで、私もたしか、三崎町の食パン 生活がやり切れなくなって、後でカデで貰ったやうに記憶する。それが事実上の鹿友会 寄宿舎のかたちで、勿論竹治様も加はられ、毎日庭で撃剣を使ふやら、棒飛びをやるや ら、なかなか賑やかだったが、人の好い中津山延徳さんは、何時も皆にからかはれて居 た。俊治翁は、書生達の他愛もなく騒ぎ立てるのを無上に喜んで、何時もハッハハッハ と笑って居られたものだ。
 
 翁は、頗る意地の強かった人で、成功後の竹治様でも奥さんでも、時に頭から叱りつ けられる事は珍しいことでは無く、而も家族達も『お祖父さんのことならば……』と、 決してそれに逆らはぬ事して居られた。それで目白に相当の邸宅が新築された後も、『 広い家に住むのは厭やだ』と云って、屋後に小さい質素な隠居所を建てゝ住まって居ら れたが、衣服なども、幾ら軟らか物を仕立てゝ上げても、決してそれには手を通さず、 粗末な木綿衣服ばかりを着て、平気で外出されるので、これには奥さんなども大分弱っ て居られる風であった。
 
 それで一面頗る慓逸なところがあって、座談を好まれ、面白い賑やかな気性の人であ った。新聞などもよく、時事問題に注意をして読んで居られ、吾々若い者の方が却って 迂闊に過して、時に挨拶に当惑させられる様なことも屡々あった。只愛息の成業を見ら れずに御内室を亡はれたのが、何んなにか残念に思はれる事だらうと、御察し申すが、 併し翁は、そんな事はオクビにも出されなかった。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]