鹿友会誌(抄) 「第二十二冊」 |
△亡友追悼録 ○川村俊治翁 川村(川村竹治君厳父)俊治翁、老来弥々元気旺盛、只管閑日月を楽しまれつゝあり しに、近年少しく腎臓病の気味あり、尋いで尿毒症を併発して、久しく医薬に親しみ、 子孫の人々交々看護に手を尽せる効もなく、大正九年九月二十三日午後二時十分、遂に 府下目白の邸に於て逝かる。享年七十有四、遺骨は雑司ヶ谷の塋域に葬る。 翁の先、川村一門第四代孫九郎秀成に出で、世々中野氏に仕ふ。翁、弘化四年十月十 日を以て花輪に生る。父は儀助、母は佐々木氏。妣石田氏との間に一男二女を挙ぐ。維 新以後、専ら教育に従事し、本郡谷内、花輪小学校その他に奉職す。既にして明治二十 一年、愛息竹治氏の、一旦志を立てゝ東都に遊学せんとするや、万難を排し、家族を 挙げて東京に移り住み、家塾興文学舎を開いて数多の学生を薫陶し、一家戮力、有ゆる 艱苦と闘ひつゝ只管息の成業を期す。 竹治君、後、東京帝国大学を出でゝ、官途に就き、県知事、内務省警保局長等を経て 、近く拓殖局長に任ぜられ、今日の栄職を拝するに至るもの、一に翁の激励指導の賜も のと謂ふべし、 翁、資性剛直、晩年に及びても、子女に対する頗る厳にして、而も自から奉ずること 薄く、愛息成業の後と雖も、華奢を厭ひて、日常極めて閑素の生活を為し、釣魚と鳥獣 等を愛養するをば唯一の娯楽とせらる。長女千代子は谷本氏に、次女梅子は黒田氏に嫁 して、家眷共に栄ゆ。 翁の東京に移居するや、鹿角出身青年学生の出入する者頗る多く、常に恩情を以て 指導せらる。その逝去するや、その邸に聴聞告別の顕官紳士無慮五百名。葬儀また厳粛 を極む。翁の霊、安じて冥するに足らむ。 |