鹿友会誌(抄) 「第二十二冊」 |
△亡友追悼録「小田島由義翁」 ○故小田島由義翁を偲びて 御老人。大人は、啻に地方の先覚者たるのみならず、又徳望家たるのみならず、我が 郡屈指の資産家であられました。若しも大人が、五十年の間、大人の絶倫な精力を、大 人の一身一家のために尽されましたならば、定めし、大富豪たり得られたのでせう。然 し大人は、徒に祖先の遺産を継ぎ、碌々として一生を終り、或は祖先の遺産を以て、空 しく子孫驕奢の資たらしむるを屑とせず、維新後五十年全く、一家の興廃を顧みず、天 下の憂を先とせられ、悉く地方公共事業と、慈善博愛の事業とに投ぜられ、老来寧清貧 に甘んじて聊も天を恨み、又他を羨むことなく、郷党の発展を見て、恰も一家子孫の繁 栄を見るが如く、折々欣快の情を洩らされました。大人の高潔なる士風は、彼爲子孫 不賈美田と謂へる、先哲の金言に思ひ比べて、崇拝の念自ら禁ずること能はざる次第で あります。 去年六月以来、不思議な御縁により、厚い御世話様に相成りました、朝夕温容を拝し 、大人の偉大なる人格に触れ、大いに自ら啓発する所がありました。御夫婦の厚き御情 は、小学校時代慈母に別れ、其後修学仕官して他郷に遊ぶこと多年、独りの父にも、幸 多き世の人々の如く永く親しき孝養を尽すことの出来なかった私をして、御情深き御夫 婦を、父とも母とも思はしめたのであります。此夏御病中、公務を奉ずる身の碌々看護 も出来ませんでしたが、唯朝夕お側に侍し、大人が御病中のことに付き、誰よりもよく 私の申上ぐることを御用ゐ下さることを、嬉しく難有思ひ、只管御平癒を祈って居りま したが、遂に永い御別れを致しましたのは、誠に悲歎極りないことであります。今や秋 風落漠、満目漸く荒寥、深夜孤燈の下、静かに思に沈むの時、凛乎たる大人の面影、髣 髴として私の前に現はるゝことも度々あります。噫大人は已に現世を去られました。然 し、大人の温容麗声は、永く私の眼底耳朶に残り、長に私を御教へ下さるのでありませ う。 人生五十、七十を以て古来稀なりと申しますが、大人の理想と覇気とに比すれば、尚 多くの恨がないではありません。而も命天に在り、生者必滅老生不定は、宇宙間動かす べからざる自然の法則でありまして、無情の風訪づる時、紅顔何時しか空しく白骨と化 し去ります。大人は真に天命を知り、一度病に臥し、再び起つ能はざるを覚らるゝも従 容として迫らず、死を見ること帰するが如く、病床の裡尚刻下の国情を憂へ、枕頭の子 女を訓ゆるに諄々として片時も止む時なかったのであります、大人が現実の生活は亡び ても大人の遺徳は永遠に亡びません、常に世を警醒薫化せらるゝのでありませう。 況んや未亡人は大人と共に、多年地方の為め、殊に此婦人会の会長として、三十三年間一方 ならず御尽し下されました。去年一寸健康を害されましたが、此頃は非常に壮健になり 、益々地方婦人指導開発に力められてあります。又図書の造詣深き徳藏君、音楽家次郎 君、才学兼備の四郎君、語学家六郎君や、帝国教育界の耆宿成女々学校長宮田夫人タカ 子女史、政治家として将来に嘱望せらる渡邊曙村長夫人トミ子女史は、共に現代女子教 育を受けたる女丈夫として、御兄弟何れも社会の要部に立ち、大人の遺志を継承し、奮 闘せられつゝあります。若しも近き将来に於て、我が帝国が存在の必要上、他の強国と 干戈を交へねばならぬ秋が来るとしましたならば、身を軍籍に置かるゝ四郎君と六郎君 とは、恰も大人が戊辰の役に花輪組の長として出陣せられたる様に、我が忠勇義烈なる 精鋭を率ひて、千軍万馬の間、馬を陣頭に進め、花々しき奮闘をなされるのでありませ う。想うて茲に至れば、大人は現世を去られましたが、大人の偉大なる功績と赫々たる 芳名とは永久不滅、御家門は弥栄えに栄え、誠に羨望に堪へません。今日此の荘厳なる 式に望み、往事を追懐して万感交々至るものがあります。黙するに忍びず、僭越乍ら追悼 の蕪辞を奉る次第であります。 大正九年十月十七日 従七位勲八等 天野喜一謹曰 右は大正九年十月十七日、花輪婦人会主催にかゝる故小田島由義翁謝恩追悼会に望み、 天野税務署長の朗読せられし追悼文なるが、頗る翁の俤を伝へて余す所無きを覚ゆれば 是を録す |