鹿友会誌(抄) 「第二十二冊」 |
△亡友追悼録「小田島由義翁」 ○故小田島由義翁を偲びふ 今日茲に花輪婦人会の主宰に依りまして、故従四位勲六等小田島由義翁英霊の御前に 、花輪町幾百の紳士淑女相集り、御遺族御近親の方々を御招待申上げ、謝恩追悼の法会 を営まるるに当り、不肖喜一、亦此の荘厳なる式末に加はり、親しく翁の面影を偲び、 其の余徳を称ふるの機会を得ましたことを私の幸福と存じます。 今私は光燦として長に花輪町を照臨せらるる尊き御位牌の前に立ち、沈思黙考、座 に凛乎たる翁の風貌を追憶し、翁が五十年の長歳月、一意専心地方公共の事業に尽され た偉大なる功績と崇高なる御遺徳とを想ひ、今更に尊き翁の大なる死を悲しまざるを得 ないのであります。 御老人オヂイサン、今年の夏、厚いさ中の七月二十九日、大人アナタの病革まるや、私は御一 族の方々及当町の富豪關徳太郎・菅原庄助の両君等を始め、大人の偉大なる功績と、大人 の高い徳とを敬慕する当町幾十の男女有志と共に、大人の病室に侍し、神に仏に大人の 御平癒を祈りました。然し私共心からの祈願も遂に天に通じなかったのでありませう。 浦井・木村両国師畢生の御手当も、遂に自然に打勝つことが出来なかったものと見えます 。柏田・石川両先生も急を聞いて御駆付け下さいましたが、時は已に遅かったのであり ます。 大人は、満邸幾十の男女が大人の御家族と共に、長い間の深い御恩を感謝し、大 人の未来の瞑福を祈るために、手に手に捧げた香の薫高く香しき裡に、五十幾念清き貞 操を大人に捧げられた未亡人オバアサンを始め、御家族様方の告別の辞を受けられつゝ、偉大 なる功績を現世に残し、笑ふが如く静かに且穏かに眠に就かれました。此の瞬間満邸寂 として声なく、恰も水を打ちたるが如く、唯嗚咽の声邸内に満ち、幾十の男女が悲歎痛 惜の情に打たれた光景は、已に百日に垂んとする今日、仍ほ私の眼底に、又私の耳朶に新 たなる印象であります。性来御気丈に在します未亡人が、前後も知らずに泣き悲しまる ゝ御家族の方々を戒められ、泣くな、今徒らに女々しき振舞をなすは却て仏様の供養に ならぬと仰せられ、つと其座を立たれましたが、見上ぐれば、流石に双眼には滝なす熱 き涙が、止度もなく流れてあったのであります。嗚呼もう止しませう。万感胸に迫り、 私の胸は将に裂けんかと思はれます。そして私は是以上申上ぐる勇気を持たないのであ ります。 御老人。大人が地方の名望家として、又先覚者として、王政維新以来五十三年、此の 地方のため御尽し下された御功績、殊に、鹿角郡長としての十二年、能く郡民を愛撫せ られ、幾多の私財を投じて郡治の成績を発揚せられ、更に晩年に於ては、花輪町治上幾 多錯綜せる問題山を爲し、非凡の手腕と卓越せる識見とを兼備し、加ふるに、超越せ る徳望を有する高潔の士にあらざれば、到底円満に解決すること能はざりし一町興廃の分 るゝ秋に当り、町民一致の懇情に依り、将に古稀に達せんとせる御年を以て、決然とし て就任せられ、御在職数年にして、能く諸般重要の問題を解決せられたのであります。 想ふに大人が町民の懇望を容れ、御老体を花輪に移さるゝ時、已に大人の御胸中には、 蓋し強く堅い大なる御決心がおありになったことゝ思うて居ります。大人の此の偉大な る御功績は、独り花輪町民のみならず、全鹿角郡民の、忘れんとして忘るゝ能はざるこ とゝ思ひます。去年五月、花輪の或人が、神聖なる櫻山神社に於て、色色と大人の功績 を私に告げ、そして、大人は花輪町の生ける神様であると云ひました。よし花輪の町民が 大人の御恩を忘れ、鹿角六万の民衆が大人の遺徳を忘却することがありましても、五の 宮の霊峯よりも高く、又大人が巨万の鯉を放飼し、地方の為め巨利を後世に遺されまし た十和田の湖よりも深く偉大なる大人の御功績は、此頃新に建立せられました大人の石 碑に苔が蒸しますとも、大人の芳名と共に永世不朽なるべしと確信致します。今日、茲 に花輪婦人会の諸嬢が健気にも此会を催されましたのも、全く多年大人の御訓薫を蒙り ました御恩に感ずる、諸嬢の赤心が発露致しましたことゝ思ひまして、諸嬢の清く愛ら しき赤誠を愛で、嬉しく又心強く思うて居ります。 |