鹿友会誌(抄)
「第二十二冊」
 
△亡友追悼録「小田島由義翁」
○小田島雲樓翁の面影
一一、一言淺利翁を励まされしこと
 翁の郡長時代、或時其当時盛なりし十和田鉱山に視察の為赴き居たりしに、たま たま淺利佐助翁、商法に失敗の結果、醤油を担えて行商に歩き居るを見掛けて、態々旅 宿の二階に呼び上げて「よく思ひ切ってこゝまで身を落されたり」と称揚し、其意気込 ならば将来必ず成功の日あるべし、と言葉を尽して激励する処ありしが、淺利翁は後年 まで此事を忘れず、年一回は必ず翁を招きて旧事を語り、謝意を表するを常としたりと 。総べて翁の人を量るは、勤勉なるや否やを第一条件とし、怠け者は大嫌ひなりし代り 、働き手には多大の同情を惜まれざりき。
 
一二、精励恪勤なりしこと
 役人時代の翁は、精励恪勤、殊に性急を以て聞え、翁の忙しげなる足音聞え来るや、吏 員等大急に各々の机に向ふを常としたり、鉱山局奉職時代も、勤勉を以て山尾局長のお 覚え格別目出度、一年に三回昇給したることありしと自慢されたりき。
 老年町長時代にも、如何に寒き時節にても、定刻までには是非出場さるゝが常にて、 第一期の如きは、四年間一日の欠勤もなかりしと云ふ。
 
一三、耄碌の味を知らずして終られし事
 翁の若い時は、なかなか風流の道を解し、殊に飲酒癖は一生を通じて止まざりしに係 らず、よくよく壮健の素質なりしと見え、一生の内、格別大病と云ふものに罹りしこと なく、記憶力も旺盛にして老年町長時代も屡々居眠りされしとは云へ、事務決裁の渋滞 さるゝが如きこと絶へてなかりき。
 東京への移住時代は、多く房州富浦に過されしが、村民、翁の精励を知り、村長に奉 じて、久しく紊乱したる村政の矯正を計らんとせしも、またま郷里の町長として帰国さ るゝこととなり、其議止みたりと聞けり。
 明治二十五六年頃より、一日も欠さずつけ置かれたる日記を、悉く清書し、其索引ま で作り置かれしは、死去の数月前なりとし云へば、其頭脳と精力は抜群にして、老来 稍々頑固となられし外は、耄碌の味は、一生知らずに過されたるものゝ如し。
 
一四、手紙に即答を与へられしこと
 翁の手蹟は、元来余り巧ならざりし由なるが、多年習字に力められし結果、草書の 如きは稍々其堂に入れるの観ありき。而して人より手紙を貰へば、如何に多忙なる時も 、直ちに返書を認めらるゝが常にして、絶えて捨てゝ置かれたる事なく、厳に死去の日 も遠方よりの見舞状に接し、直ちにハガキに返書を認め出されしが、訃音を聞かれし数 日後に其手紙達せし故、先方にては一寸奇異の感をなしたりとぞ。手紙の返書を直に出 すが如ききは、一些事なれども、優長なる郷人の常として、かゝる事さへ態々延引する が如き、弊風ありと、翁は屡々嘆かれたり、翁の言に「余が知れる郷人の内に、手紙を やりて兎にも角にも迅速に返事を呉れるのは、石田八彌氏一人なり。彼の人の立身も決 して幸運のみに非ず、斯る鹿角風を脱したる美点あればなり」と屡々子弟を警められた り。
 
一五、敬神の念篤かりしこと
 敬神の念篤かりしことも、翁の一特色にして、毎朝神棚を拝して祈念を凝さるゝが常 なりき、祖先の祭等には能く意を用ひ、系図並に祖先の美事等も能く調べ置かれたり。 母堂生存中は朝晩の挨拶を欠かれしことなく、生家の兄君等に対しても、能く愛敬の誠 を致されたりき。櫻山神社を当地に勧進し、首唱して忠魂碑を建立せし如き、如何に故 旧に篤かりしかを見るべし。
 嘗て旧士族連より押されて、復録運動に上京されし際の如きも、成功せざる運動に、 多くの運動費を費しゝは気の毒なりとて、大抵自費を以て支弁し、各自よりの徴収金を 最少限度を以てしたれば、未だにそれを徳とする人多し。

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