鹿友会誌(抄)
「第二十二冊」
 
△亡友追悼録「小田島由義翁」
○小田島雲樓翁の面影
六、古武士気質を存されしこと
 維新前後の翁は、断髪も廃刀も人先きに断行されし方にて、所謂其当時のハイカラな りしならんも、老来発揮されし其古武士的剛性には、家内の方々も時々辟易することあ りしと聞けり。就中病気に臨みては総て、病は気を以て勝つべし、と云ふ主張にて、 医者の忠告も馬耳東風、検温器等の如きは最も嫌なるものゝ一にして、今の若い者の如 く生理、衛生などいふことを心得れば、人間は却て柔弱になるとの自説を翻さるゝこと なかりき。されば死去されし時は、酷暑の折柄と云ひ、余程の苦痛なりしならんも、強 いて一人にて便所に行かれ、床上に端座して、昼頃まで来訪者などを日記に詳記さるゝ 程なりしかば、家人も多少気を緩し居りしに、夕方に至り急を聞いて、親戚故旧の枕頭 に集る暇もなく卒然として死去されき。
 
七、志商業に存されしこと
 翁は、若き時より家を出て、鉱山局の役人として十数年、帰郷後も郡長、又は町長とし て殆んど七十余年の半は公人として始終されしが、常に「自分とて若き時より、志は商 業にありたれども、周囲の事情これを許さず、遂ひ役人として始終したり。尤も我々の 役人を勤めし心持は、全く御上に御奉公の積りにて、今時の役人衆とは少し異れり」と 云はれたり。翁が郡長時代の小坂鉱山より高給を以て聘されしことあるも、断然耳を借 されざりしと聞けり、郡長致仕の後暫く酒屋を経営されしも、第三者より見れば「時 既に遅し」の感ありき。之につき一笑話あり、
 翁、帳場に座して、「蔵詰メッ」と呼ぶに誤って或は「小使」と大呼し、役人気質膏 肓に入れりと自ら苦笑し居られたりとぞ。
 
 八、読書癖旺盛なりしこと
 翁の読書癖は、長い生涯を通して変りしことく、座右に何か書冊なければ安せざるも のゝ如くなりき。好で史書、及稗史、小説の類を読まれたれば、徳川時代の夫れ等に関 する書類は殆んど渉猟されざることなく、後年に及んでは往々老人連に分りさうもなく 、新思想の書物を読まれしも、能く諒解して相当の批評を加へられたり。常に「自分の 読書癖を或一方面に用ひなば、相当の学者になり得たらんも、志は活学にありたれば、 左ることもなく遂に濫読家として一生を終りたり」と云はれたり。
 
九、十和田湖に鯉魚を放たれしこと
 世間往々十和田湖放魚の効を和井内氏一人に帰するも、其実最初の着眼者は翁にして 、初期の郡長時代に大湯の千葉氏は、鯉魚数十尾を運び、古来魚類禁制の地なりとの迷 信を排して、十和田湖に放流せしは、実に翁なりき。されば其業を継ける和井内氏も、 年々同湖より得たる数尾の生鯉を贈り越すが常なりき。翁は十和田湖に離宮を置かるゝ ことを理想とし、近来同湖の広く世間に紹介さるゝや、常にこのことを語り欣ばれたり 。
 
一〇、戊辰戦争時代の翁
戊辰の際、花輪勢取締として秋田藩に切入りし時は、翁の二十一才の時なりしが 、深く南部勢の軍紀の廃頽を慨し、盛岡より来れる監軍に対し、激論したることありし も、一向に聴かるゝ気色なかりしかば、夫れ以来、此軍は到底勝見なしと見越し、敵軍 と対する時は、力めて手勢を高処に引上げて、出来る丈損害を少くする様にこれ勉めた りと、後年語られたり。

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