鹿友会誌(抄) 「第二十一冊」 |
△亡友追悼録「小笠原勇太郎君」 ○小笠原君を追想して 大阪 田村定四郎 大里文五郎氏の物故された後、郷里に於ける自分の先輩であり、且つ親友であった小 笠原君を昨年七月失ったことは、詢に残念の次第である。同氏は至極真面目な情愛の深 い人格であった、自分とは軍人仲間であったから、此の方面の思出を少しく述べて見よ う。 同氏は、早稲田出身後、丁度日清戦争の末期に一年志願兵に出て、予定通り少尉にな られた、真面目な性格は爰にも発揮して、予備少尉中、異数の抜てきを以て中尉に昇進 したのであって、大に軍人の「タイプ」を具備して居った、自分は他郷に放浪して居っ たから、在郷軍人としては怠慢の事が多かった。其為め小笠原君に随分心配をかけ、自 分の留守宅に色々注意を与へて呉れたものだ、 日露戦争の際は、同氏は後備第十七聯隊に、自分は野戦第十七聯隊に召集せられて、 暫らく秋田に滞在して居った、小笠原君は先きに召集され、秋田市故阪本慶三氏の宅に 居ったので、自分も同氏と同宿して、盛んに秋田のお貝焼きを突つき合った。そして同 氏の注意に依て、戦争行の仕度を整へた次第だ、「ウイスキー」を紅茶に入れて呑む事 など、実は其際同氏からの伝授である。 自分が大阪に就職後、同氏は両三度大阪に来られた、其際西洋人から貰った上等の「 ウイスキー」を持って居ったのを同氏に贈ったなどは、秋田時代の思出に基いたのであ る。 日露戦争には、自分は渡満後、兵站部に転任になって、遼陽に待命中、我が第八師団 の初陣、黒溝台の戦闘が始まった、丁度三十八年の冬の寒むい日で、朝から雪が降り出 して居って、其の中を間断なき砲声が「とろろ」でも摺る様にゴロゴロと続く、用も無 く遼陽の宿舎におった自分は、之を聞いてはホントウに立っても坐っても居られない気 持で、トウトウ夕方から停車場や病院の訪問に出かけた。停車場は無数の戦傷者で埋ま って居った、無蓋の貨車で否応なしに大連の病院に後送されるので、大混雑を極め、ト テモ小笠原君の消息が解らない、それから野戦病院を尋ねた処が、爰にも負傷者が充満 し、小笠原君の聯隊長や自分の元の大隊長など負傷して収容されておった、そしてトウ トウ或る暗い一の室で小笠原君を見附けた時は、非常に嬉しかった、実は停車場で自分が 遂ひ一と月前に別れた元隊の上官や同僚や部下などの戦死重傷を耳にしたから、小笠原 君の事も大なる不安を以て考へずに居れなかった、それが幸ひにも負傷で、遼陽の病院 に送られ、傷も顔の一部で心配がなかったからである、何にせ着のみ着のまゝであるか ら、入用なものや滋養品を補充すると云ふ様なことで一両日を過ごした。 黒溝台の戦闘は、当時の我満洲軍にとりては、非常な重要な戦争であって、若し之れ が破れると遼陽は直ぐ敵手に落ち、日本軍が後方との聯絡を中断せられて、其結果が恐 ろしい事になるのであって、当時遼陽に居られた大山閣下が非常に心配をせられたと言 ふ事であるが、倖にも勇敢なる我が第八師団が中堅となって、此の線を食ひ止めた、そ うして此短期の戦闘に多大の犠牲を払ったのでも、奈何に此の戦闘が猛烈であったかが 解る、そういふ状況から、同氏は負傷をも不省、元隊に復帰する事を軍医に申出たが、 各自の立場があるので一寸承知しない、其内自分の元大隊長の知人の一将校も包帯を巻 きながら元隊に還すると云ふ申合ひが出来た、トウトウ小笠原君と三人、三四日目に黒 溝台方面の戦場に又出かけた。かう云ふ点でも、同氏の真面目な責任観念の強い事や、 且つ戦場に在る自己の部下に対する情愛の深い事が良く現はれて居る。其後負傷も順調 に平癒し、中隊長の職務を掌って居ったが、奉天戦も無事に済み、大尉に昇進して芽出 度く凱旋した次第である。 如斯武運の芽出度い同氏は、昨年肺炎で殪れたといふ事は、自分の推測では、軍人に 関聯して居ると思ふ。聞く処によれば、其当時鹿角郡聯合在郷軍人会が毛馬内に開かれ 、同氏は郡内最高級の在郷将校で、而かも聯合会長であった関係上、其際病を押して之 れに出席したらしいが、会の中途耐へ切れなくなって、一時毛馬内の親戚迄引返して漸 次休養し、それから小坂に帰宅したといふ事であるから、其時既に病勢が募って手後 れとなり、遂に不帰の客となった次第と思ふ、 同氏が数年前より小坂の町長となり、地方自治の為め鋭意改善の衝に当り、前途多望の身 を以て、行年僅かに四十七歳で死なれた事が、郷里の為めにも亦大なる損失と思ふ、若 し小笠原君が自分の様な横着者であったら、総会などに出ないで、自宅に静養して居っ たかも知れない、然し前述の様な真面目な責任観念の強い氏であるから、自己が会長と して、当日欠席が出来なかったであらう。在郷軍人としても一郡を良く指導し、聯隊区 管内に於て、鹿角は好成績を保って居ったのは、同氏の努力に依るもの大なりと信ずる 、且つ町長の公職をも勤めて居ったから、位階の進級があるだらうと思って居ったが、 実現しなかったのは遺憾である。 自分は昨年夏、祖先の法事の為め十年振りで帰省の心組をなし、帰途小坂に立寄り、 緩る緩る同氏の聲(聲の耳の代わりに言)咳に触れようと考へて、折角楽しみにして居 ったが、兎角世の中は思った様には行かず、往道小坂へ廻って君の墓前に立った時は、 実に万感胸に迫って、涙を圧ゆる事が出来なかった、軈がて香花を手向け、君の冥福を 祈って、花輪に向った次第であった。(完) |