鹿友会誌(抄) 「第二十一冊」 |
△亡友追悼録「小笠原勇太郎君」 ○趣味の人小笠原勇太郎君 何日頃研究したのか定かならねど、君は国風にも手を染めたらしい。日露戦争凱旋の 折 君が為惜しからざりし命さへ なほながらへて帰るふるさと 日露戦争凱旋の日 小笠原大尉 この国風を自分に送られ、之を小野鵞堂氏に頼みて下書をなし、当時流行のカーキ色 で縮緬の服紗及手拭に染め出し、故郷へ土産としたのである。 附 郷社改築の際、神前扉の錠前並に釘隠等、弘前・青森恰好のものなしとて、態々東京迄 注文し製作したる抔、其趣味の一班を知ることが出来る。 村より一、二里離れたる所に牧場を設けて、乳牛を飼ひ、親戚馬淵某をして之を監督 せしめあるとの事で、其写真を見た、現今小坂町にミルクホールがあると云へば、君は 此等牛乳の元祖であらう。 写真は学校卒業後、郷里で研究し始めたもので、素人写真師として先づ乙上位のもの で、よく妻君を材料にお二人連盟で写され送られたものだ。 大正三年夏期休に自分が鹿角へ帰省の折、君を訪ね、十和田湖見物の案内を頼んだ。 早速承諾して呉れ、役場の方を休み、早朝出発、七瀧村、鉛山を経て十和田湖畔に着、 昼食の上、一行舟に乗る、君、岸辺に在ってシャッターを引く、帰郷後、其の現像を送 越されたが可なりの出来であった、湖内の風景を巡覧して休み場に一宿、翌日モーター ボートにて和井内氏の孵化場を訪ひ、養魚の実際を見、夫れより銚子の滝、発電所をも 見て、其夜は大湯の諏訪ホテルに一泊、翌朝馬車で毛馬内着、自分は祖父母の墳墓に詣 ふで、君は親戚奈良家を尋ね、予て容易の乗馬で小坂へ帰った、此行外観ほんの案内の 様なりしも、君の底意は七瀧の地勢、鉛山の模様、又一時県治上喧しかりし十和田新街 道を実地踏査するに在ったらしい、其公務とした役場の事務に忠実なるは感ずるに余り あった。 其態度、従容として迫らず。中肉にして並より背高く、姿勢優雅、第二師団在営中は 「姿勢は小笠原中尉の如くなれ」と云はれたものだそうだ。言語も極く大人しく多く語 らず、穏かで、去りとて無口にもあらず、人と争はず「ウムソーカソーカ」と常套語を 用ゐた、物事に決して熱中せず、又大山鳴動するもびくともせぬ。人を誉めぬ代り、他 人の悪口を言ふ事なし、何事を習ふにも学ぶにも、分かりが早く記憶もよく、酒は二三 杯で、ビールは小壜の処だ、甘い物も沢山は口にせず、所謂暴飲暴食せず、不平不満の 言を漏さず、去りとて楽天主義でもなかった。 |