鹿友会誌(抄) 「第二十一冊」 |
△亡友追悼録「小笠原勇太郎君」 ○趣味の人小笠原勇太郎君 東京 湯瀬禮太郎 君は東京専門学校政治科在学中は、始終牛込喜久井町二十番地棟梁株櫻井方の離れ座 敷に陣取って、中々応揚に貴公子然たる書生さんで、万事が流行の魁であって、其当時 はやったる西洋刻煙草ライスペーパー、メシャウのパイプ抔は其の粋を極めたものであっ た、又真先にフランネルの単衣もの抔を用ふる様は、宛然金満家風を発揮したものだっ た。遊び仲間は大里武八郎、吉田康共、平ボサン(内田平三郎君)、川口恒藏、山本祐 七諸氏であったらう。而して其遊び方は至極無邪気で又按外淡泊で、先づ第一はトラン プ・歌加留多、空の花合せ、次は寄席位のものであって、此の遊技を闘はす為に、牛込本 郷、神田等股に掛け、テクで互に往来したものだ。今から考へて見れば実に隔世の感有 りとは此の事だ。驕りとしては、蕎麦屋・牛肉屋が関の山で、菓子は焼芋と餡パン位のも のだった。 茶の湯はお手に入ったもので、晩年町立の実科女学校に特別科として茶の湯を教へた 位、之も櫻井方から、当時大久保に居られた丹野氏の弟子となって通った賜である。 大猟の話は聞いた事がないが、鉄砲も中々好きらしく、能く金丸鉄砲店や大倉組抔で 散弾を仕入れて居った、其効験なるべし、一年志願兵として仙台に在った際、射的で一 等賞を得たとのことであった。 之れが手解きであったかどうか分らぬが、自分が案内して、現今神田駿河台国民中学 会のある処に、中年増の意気な未亡人の月琴のお師匠さんがあったが、夫れへ先導して九 連環から始めて、相夫恋抔を教はった君は、何事にも器用だけあって、ズンズンと上達す るに拘はらず、自分は何時もスウジャンスイジャンスイハーのみで、とうとう匙、否な 爪を投げた。処が君は一と角師匠なしに弾く様になって、小さい折本に表装した稽古本 も遺物の一つとして残って居るだらう。 当時は余りに流行らなかったにも係はらず、ハイカラの事とて如何に之を逃すべき。 下谷御徒町に居らるゝ或人に宝生流を稽古せられ、竹生島、桜狩等九種位は修めたらう 。併し一遍も拝聴したことがないから、他の人に尋ねられたい。 馬術堪能と云ふ程にはなかったが、兎に角乗馬の心得はあったらしい。早稲田在学中 、暑中休に大磯の海水浴に出掛け、長者林の彼の長生館に滞在して居った折から、自分 も学校休なれば、富士登山の下相談もあったことゝて、同館を訪づれ、二、三日間海に 浸り、身体を固め、御殿場に出かけ、一泊、翌黎明、剛力一人を雇ひ、かいまき様のど てらに、握飯、足鞋十足程を負はせ、我々二人は西洋馬具を著けた駒に乗り、馬子に率 かれて星を戴きつゝ、轡の音がリンガラガーラ、蹄の拍子がシットンシットンといふ工 合で、町内を練り出した。処が其の日の君の出で立は、半ズボンに紺の脚絆、セルの脊 広に同じ地質のハンチング、双眼鏡を肩にかけて、マニラ産のシガーを輪に吹くと云ふ 有様、 ソロソロ町を離れて、彼の曾我兄弟が不倶戴天の父の仇を討ったと云ふ、 富士の裾野に差し掛ると、君はダクを遣り始めた。馬はズンズンと駈出した、馬子は 追付かず、手綱を離して後になった、馬は先天的競争心のあるものと見えて、自分の馬 も駈け出した、君は鎧を鳴らして益々馬を走らし、宙を飛ぶ様で、自分の馬も之を追ひ 越さうととしても、肝腎の騎手は中々左様に参らず、ダク処か、手綱を手に縛り付て、 立て髪を押さへ尻をポンポン鞍上に刎ぬ返され、今や落馬の非運を見るかと、小笠原小 笠原と勵(力のない勵)声疾呼、其の止まらん事を求むるも、聴かぬ振りの半兵衛をき め、鞭を加へる馬耳東風とは斯る場合から出来たものかとも観念され、乗馬ならぬ、騎 手の方が却って流汗淋漓、一生懸命馬上にかじり付いて、先づ先づ災難を逃れて、馬返 しに安着、其の酷なるを詰っても君は平気の平左で、例の常套語「ウムソーカ」、茲に 駒を待たせ置き、剛力の案内で登り始めた、一合目毎に生玉子一個宛飲んで勇気を起し 、六合目に至って一と休み、脚下を一望すれば、真に天下を呑むの慨あり、剛力は我々 の健脚なるに驚き、又君を測量師と見立たるは、其のなりふりからして至極妙な観察と 思はれた。 |