鹿友会誌(抄)
「第二十一冊」
 
△亡友追悼録「小笠原勇太郎君」
○多方面な人
 君は多方面に趣味を有して居られた。小坂の様な大町村になると、他と違って随分役 場の仕事も可なり繁雑であるに拘はらず、君はよくせっせっと勉強して、事務を見られ た。殊に統計に趣味を持って、いろいろの表などを自ら立案して作り上げられたものだ 。それで写真もやれば、茶の湯もやる。実科高等女学校が出来てからは、茶儀の講師と して生徒等に指南をもされた。謡曲は明治三十年頃から東京宝生流の大家近藤先生に付 いて稽古され、又本会員大里平治氏にも学ばれた。書画や骨董にも趣味を持たれていろ いろな物を集められてあったが、併し之は余り深入りしない様であった。
 
 又読書の趣味を有し、日常身辺多忙なりしに拘はらず、努めて新刊の図書を購入して 読んで居られた。それに君が中心となって、四五名の有志者と協議して北斗会なるもの を組織し、毎月新刊の雑誌や図書を購入して、互に輪読し、毎月一回会合してお互の研 究を談し合ふと云ふ様な事をして居られたが、その会は、明治四十三年以来連続して、 今は大分の蔵書が出来て居る。
 
 元来君は頗る潔癖家で、然も養生家であったので、衣物の著こなしなども何時もキチ ンとした身装をされて、何時見てもダラシの無い風などをして居る事は遂いぞなかった 。
 酒は少しもやられなかったが、煙草は非常に嗜好せられた、二六時中、君の口から紫 煙の影の絶えた事はないと云ふ程であったが、併し巻煙草ばかりで、刻煙草は一切用ゐ なかった。余り煙草を嗜んだと云ふ事は、病気の時に心臓を弱めた一つの原因であった らうと、医者などが云ふて居った。
 
 君は又中々の交際家で、各方面に交友を持たれ、年中訪客が絶ゆる事がなかった。之 は君が性質として、虚心淡懐、城壁を設けずに人と交際せられたからである。それで中 々剛情な処があって、一旦云出したら容易に後に退かないと云ふ風であったので、一部 の人からは、反感を買った事もあった様だが、近来大分老熟して、圭角も取れ、性格も 円満になって来られた様であった。

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