鹿友会誌(抄) 「第二十一冊」 |
△亡友追悼録「小笠原勇太郎君」 ○君の軍人生活 明治七年十二月廿一日、一年志願兵として仙台歩兵第四聯隊に入隊した時、偶々彼の 日清戦争が起ったので、引続き戦時勤務を取り、同二十九年四月除隊となった、明治廿 九年七月陸軍歩兵少尉に任ぜられ、同三十年四月一日、二十七八年戦役の功により金百 円を下賜せられた。 明治三十五年三月十一日歩兵中尉に進級し、日露戦争開かるゝや、秋田の後備歩兵第 十七聯隊に召集せられ、明治三十七年十一月出征、同卅八年一月廿五日の黒溝台附近の 激戦に敵弾の為め鼻梁に負傷し、一時野戦病院に入院したが、傷痍癒ゆると共に再び軍 に従ひ北進して、奉天の大会戦に参加し、明治三十八年二月歩兵大尉に進み、明治三十 九年二月無事凱旋された、三十九年四月、三十七八年戦役の功に依り勲五等に叙し、又 旭日章及金六百円を下賜せられた。 日清戦争後、君は小坂村在郷軍人団を設立して、之が団長となり、在郷軍人の指導教 育に尽瘁せられ、明治四十三年帝国在郷軍人会の設立せらるや、君は小坂町分会長と して大に会の発展に努力せられた、又明治四十一年五月以来、弘前聯隊区将校団の第三 区長を命ぜられ、山本、北秋田、鹿角の三郡の将校団の統率官として尽力し、又鹿角郡 聯合分会長として全郡分会の指導誘掖に努められ、又は帝国在郷軍人会弘前支部の評議 員として尽力し、大正七年五月全国聯合分会の大会を東京に開催せらるゝや、弘前支部 から特に派遣されて之に参列し、帰来、同年六月鹿角郡聯合分会の大会を毛馬内町に開 催する事となり、当時病苦を忍びて之を司会し、遂に之が原因となって又起つ能はざる に至った。 兎の角、軍事方面に於ては、前記の如く小坂村在郷軍人団時代より、軍人分会長時代 に至るまで、終始一貫熱心に尽瘁せられ、現時の如き分会の盛況を見るに至ったのは、 君の功労に待つ事偉大なるものがある。 此点に於て君の死は、小にしては小坂町分会の為め、又は鹿角郡聯合分会の為め、将 た又弘前支部の為め一大損害と謂はねばならぬ。 |