鹿友会誌(抄) 「第二十一冊」 |
△亡友追悼録 ○小坂町長・陸軍歩兵大尉 小笠原勇太郎君 大正七年五月の末頃から吾が小坂町には、一種悪性の感冒が流行して、多数の罹患者 があったが、六月廿三日に毛馬内町に於て、帝国在郷軍人会鹿角郡聯合分会の大会を開 催する事になって居たので、君は分会長として之を司会す可く、其前日から毛馬内町に 出張し、其晩から身体の具合が悪く、発熱して同夜は一睡もしなかったと云ふて居られ た。それでも翌日は病気を押して出席し、昼頃まで病苦を忍んで周旋応待せられた。 見れば顔色も甚よくないので、人々が無理に勤めて帰宅させる事にして帰宅した、晩 には悪寒発熱が甚しく卅九度以上に及び、其翌日も翌々日も熱が依然として降らず、二 十五日頃から右肺の下葉に少しく異常を呈し、肺炎の疑ひがあるので、二十八日に小坂 鉱山病院に入院して、専心療養に努めたが、軈てクロープ性肺炎と云ふ事が確実となり 、主治医米山院長その他熱心に治療看護に最善を尽したけれどもその効なく、七月七日 の黎明、東天紅を潮する頃、溘焉として白玉楼中の人となられた。発病以来経過十有六 日、噫。 ○葬儀 葬儀は七月十一日の日午後一時菩提寺なる鏡得寺に於て執行されたのであるが、君の 遺骸を見送る人の中に、今年七十二歳なる君の厳父と、六十六歳の母堂とのあることに 想到すれば、一層此の葬儀に無限の哀痛を感じさせるのである、特に故人の心を斟酌し て、勉めて質素に営んだのであるけれども、町会議員、役場吏員、商業会、料理業者組合等より寄 せられたる造花生花弔旗の類数十に上り、小坂町ありて以来稀なる盛儀なりとて、今更 に故人の信望の厚かりしを偲ばしむるの一つであった。勤行厳に導師引導に次で、小坂 町長代理助役安倍義惠氏、日本赤十字社秋田支部を初め郡長、消防義会、鹿友会、帝国 在郷軍人会鹿角聯合分会、小坂教育会等の代表する弔詞の外、故人として町田忠治氏 外数名、都合二十余通の弔詞が霊前に読まれた、斯くて遺骸は境内同家の墓塋に埋葬さ れた。 |