鹿友会誌(抄)
「第二十一冊」
 
△亡友追悼録「青山七三郎翁」
○古河家の柱石   東京 青山芳得
 君は事業に当り、公平無私忠実にして部下を愛し、常に精力主義を以て任じ、足尾創 業以来、多年一日の如く鋭意専心努力したる人にして、古河家中、幾多の俊才傑士を出 せりと雖も各山に歴任し、就職以来二十有余年の久しきに亘りて勤続したる者稀にして 、足尾銅山の今日あるは実に君の力与って大なりと云ふべし。
 君、性敦厚にして情誼あり、養成せられたる子弟、指導せられたる鉱山幾何あるを知 らず。
 
 曾て足尾に於て、太田貞澄氏製煉所長たりし時、古河市兵衛翁来山せられたり、其際 御出迎へとして役員一同、表門迄参集せしに、君一人礼服著用したりき、太田氏曰く「 君、主人は右様の立派なること大嫌ひなり、君は何故今日に限り斯様の姿にて出でたる や」と、君答へて「御同様何かあれば紋付を用ひ、又フロックコートを用ふるに非ずや 、主人の御迎へに限り、仕事着の侭にて出るは、翁に於ては、御悦びなきかは存ぜねど 、吾が心中然らず、万一御叱りあらば、謹んで御叱りを受けんのみ、唯吾等が意中を表 せば足る」と、敢て市兵衛翁の御叱りを受けざりしが、以後は礼装にて迎ふるに至れり と云ふ。
 
 明治三十一年の秋上京の際なりき、市兵衛翁偶々病痾に冒され、両国升田屋に保養し 居られしに依り、見舞ひたるに「今時何の用事ありて上京せるや」と問はれたらば「公 用の外に愚息教育上に関する件」と述べたるに、古河翁の曰く「子を如何に教育するも 、何の用かをなさん、吾、汝の知る如く学校へも入らず、又何等の学問も為さざるに、 博士学士を使用し居り、汝とて学士を使用して居るに非ずや、男子十五歳に達せば、 山に連れ戻り、実地に就かしむべし」と、時に君答へて「翁の人を使ふの故を以て、吾之に 傚ふ能はず」とて益々子弟教育の必要を極言したれば、翁嘆じて「噫々実に然り、余も 子を持ち教育中也、君の目下の境遇として子を教育せずして可なるものあらんや、吾、 只汝を試みしのみ、充分仕込まるべし」とて大いに涕涙せられ、君又共に感涙を催した りと云ふ。
 
 足尾本口坑道、最初の取開け作業の如き容易の業にあらず、着鉱の確信あれば万難を 排して遂行するの概あり。明治十五年の頃なりき、実地測量の結果、掘進中止の命に接 するも、意見書を提出して実行せしめ、予想の着脈を見たる時の如きは、病中を忘れ、 夜中尚現場に至りて歓喜雀躍せりと云ふ。
 斯く鋭意専心事業に熱心なりしが故に、前代市兵衛氏の信任最も厚かりしと云ふ。

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