鹿友会誌(抄) 「第二十一冊」 |
△亡友追悼録 ○鹿友会賛成員 青山七三郎翁 青山七三郎翁、古河家に在りて鉱山業に尽瘁すること多年、その現職を去るの後、尚 直接間接同家に尽す処少からざりき。大正八年五月遽に病を得て没せらる。 翁と川口理仲太翁とは、実に我が尾去澤の産める鉱業界の二大俊秀なり。川口翁は終 始郷里に在りて内外に重んぜられ、青山翁は中央に出でゝ其の逸材を天下に知らる。而 して二翁相次いで逝く、悼ましからずや。 ○翁の略歴 明治四年尾去澤鉱山廻山掛りを命ぜらる、当時南部藩の稼行に属し、廃藩置県の制度 となるや、同山を辞し、各鉱山見学として巡廻し居れり。 明治八年十月、福島県半田銀山に奉職したるも、当時は微々として振はず、翌年同山 を辞し、但馬国生野銀山に転じ、見学の傍ら陶器粘土の取調べをなす。而して常に陶器 の製造に趣味を有し、従って京都市陶器製造所に付研究し、又偶々足尾銅山に青山庄藏 氏在勤し居り、古河家にて同山を譲受くるや、当時尚ほ同山微々たるものなりしも、将 来有望と見て、当山に就職せよとの庄藏氏の紹介に依り、明治十年一月初めて足尾銅山 に奉職することゝなり、坑部課坑内係を命ぜらる。 当時足尾銅山は、下稼人稼行法(従業者各自製練して精銅を鉱主に納む)なりしが、 遅々として発展ぜ、依て古河家直営の部分を加工し、非常の困難に遭遇したるも屈せず 持続し来り、秩序正しきに至り、坑部課副課長を命ぜらる。爾来益々発展すると共に、 十六年五月坑部課長を命ぜらる。 翌十七年七八月の候、本口坑の引立て取分け、開坑の事業大に進行し、大鉱脈を発見 するに至れり。 十九年五月、陸奥伯の紹介により英国公使の実地調査あり、大いに優遇して坑内の探 見等もありたり。当年小瀧坑口の取分、並に開口一方に起工し、及川清七氏之に当り、 而して青山翁は本山全部の担当者たりしなり。 爾来引き続き二十八年十二月に至り、電気副課長を命ぜらる。斯くて坑内漸次上下左 右に延長を来し、掘下げは益々深くなり、水も増加し来れるが、故に本口坑口に蒸気機 関を据付け、二五〇〇尺の大竪口迄蒸気を送り、其汽力を以て一方捲き上げに使用し 、一方ポンプに使用せり、然れども延長するに従ひ、蒸気力にては到底使用に堪へず、 依て水力電気を起すことゝなり、二十三年九月、右電気事業落成す。即ち日本に於て水 力電気を用ひたる嚆矢なり。 右電気を用ふるに当り、本山は勿論、通洞小瀧簀橋の各所に電気を応用し、坑内外関 係の電気使用増加せしに依り、電気副課長を命ぜられたり。但坑部課長は故の如し。 明治三十年、政府より予防工事設備の命令あり、該工事の坑内外監督を命ぜらる。本 店に於ても、従来の方法を墨守するを許さず、初めて重役会なるものを設立し、其会議 員を命ぜらる。 明治三十三年引き続き坑部課長勤務中、坑内巡廻の時、電線の破片眼球に触れ、其場 に卒倒し、人に扶けられて治療に罹る、其場合、古河家の職務負傷規則に準拠し、給料 賞与は現職の侭支給を受け、外に治療手当を支給せられ、東京に於て専ら治療を加へ治 癒す。 辞職後は、兼て古河家より特殊の功労に対し手当を給与せられ、本郷区丸山福山町に 住宅を造り、傍ら高等旅宿業を営みたり。然れども未だ老年に及ばず、古河家所有各鉱 山視察等をなし、又他の依頼に依り、鉱山を監督しつゝありき、斯くて自然に他より持 込みの鉱山三四ケ所を自営し来れり。 老年に及び、大正八年四月、地を澁谷に卜し、住宅地と定め、本郷旧宅より移転する や、病魔の冒す処となり、大正八年五月十一日遂に没す。行年六十六歳。 ○弔詞 同郷の先輩にして鹿友会の賛成員たる青山七三郎君逝去せらる、君、資性温厚、極め て同情に富み、後進の君に負ふ処頗る大なるものありき、而して君今や亡し、悲悼何ぞ 堪へん、茲に謹で深厚なる弔意を表す 大正八年五月十五日 鹿友会幹事長 正五位勲三等功四級 青山芳得 ○弔詞 日本鉱業会は、正会員青山七三郎君の長逝を悼み、茲に恭しく弔詞を呈す 大正八年五月十五日 日本鉱業会々長 正三位勲一等 工学博士 渡邊渡 |