鹿友会誌(抄)
「第二十一冊」
 
△亡友追悼録「川口理仲太翁」
○忠孝節義の士   尾去澤田郡 川口武哉
 姓は川口、諱は義行、字は子文、通称は理仲太、直齊と号し、淺利義遠の後裔にして 、世々山相を以て南部藩主に仕へて、尾去澤鉱山に住し、父は與十郎義儔、母はタケ、 天保十二年九月生る。
 
 五歳にして漢籍を学び、十一歳にして四書五経・史記等を読み、其意に通じ、十二歳十 二所町儒者菅生の塾に学ぶ。幾もなく師塾生教授の補佐たらしむ。居ること二年、諸子 百家の書を渉猟し、十四歳辞し帰りて、一刀流の達人江幡平八郎、軍学及砲術の大家某 氏を家に聘して之を学び、皆伝を受く。
 戊辰の役、南部藩に属して第二部大砲隊の隊長となりて十二所口に向ひ、屡功あり、 督軍より感状あり。又藩公より手沢の土器及裃を賜はる。
 
 安政三年十七歳にして職を鉱山に奉じ、実地に就き専ら家学を研究し、発明する所頗 る多く、弱冠にして藩公の命に依り山相法研究の為め、横浜に遊学し、米国人に学び、泰 西の学術を極め、次で公儀の御用人松田甚兵衛の知る所となり、公儀の内命に依り、関 東北越の諸鉱山を巡検し、採鉱の設計を建つ。
 当時足尾鉱山の如きは、鉱物既に尽きて廃山となり居れるを、山体を相し、新たに豊 富なる鉱脈数条を発見し、坑口の位置及開堀の方向を示し、現今盛大の基を開けり。
 
 後、小野組に聘され、奥羽諸山を実見して三十余の鉱山を開く。関東以北、現今大成せ る鉱山は、概ね当時既に望を属せし所なりと云ふ。
 次で尾去澤鉱山に帰り、重任せられて採鉱を担当し、頗る実績を挙げ、又横浜遊学後 、常に新学説に目を曝し、且つ諸山の鉱況を暗んずるを以て、退職後も諸方より鉱山師 及学士等来りて所見を問ふもの多し。
 
 此激務に在りて綽々余裕あり、夙夜書を講じ臨池に耽り詩文を草し、年五十にして職 を辞し、間居手に巻を釈てず、儒教を本とし、易は最も得意とする所にして、終生研鑽 、自ら発明する所あり。
 兼ねて仏学にも造詣深く、其遺稿積で山を成す。大正八年十二月二十七日溘焉として 逝けり。年七十九、性方正にして忠孝節義を重んじ、慈愛の情に富み、恭倹にして人に 下る等は世に定評あり、茲に贅せず。

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