鹿友会誌(抄)
「第二十冊」
 
△須内・高橋両秀才を弔ふ
二、高橋文雄君
 君は会員櫻田潔君の実弟なり、小学時代、其親類高橋春省氏に養はれて嗣となる、幼 より頴敏にして才学、常に同級の上席たり、小学卒業後、直ちに秋田師範に一回にして入 学し、秋田師範は常に優等にして卒業、高等師範学校も入学試験唯一回にして入学す、 君に於いては入学試験は一の茶飯事のみ、如何なる入学至難の試験も、君には容易なり き、而かも平素勉強家にあらず、時間的に曰はゞ寧ろ遊怠の人なりき、然るに君は如何 なる難解の学問をも、直ちに容易に直覚得要するの利器は偉大にして、一度君の脳中に入 れる学問は、忘失せらるゝ事なく、寧ろ醗熟酵成して直ちに君の智識となるのであった 、
 
 君に就いて語るべきは、主として才の方面を記すれば、君の九分を髣髴するものであ る。学才は如上の記述で其一斑は偲ばれるであらう、而して其世才の方面に於ても、学 才と伯仲して、遜色あるものでなかった、学校に居れば学校で、何々会に入会すれば 其会で、卒業して社会に出づれば其社会で、必ず存在は認められ、愛用重用となり、幹 部となり役員となり、役に立つ人よ使へる人よ、重宝な人よ出来る人よとの信用を到処で 受取る処の不思議な人であった、
 
 人心を吸収して人望を獲得するには、非常に特長ある人であった、能く働いて何事を やっても成績見るべきものあった、是れは君の生命であった、
 余と二人二ケ年、湯瀬氏を幹事長として鹿友会の幹事した時にも、君の幹事としての 手腕はあざやかなものであった、
 君は骨肉の親みは実に深い人で、京大双親に対する孝悌の情に敦い事は非常なもので あった、君の平素の言行は、如何なる時でも、才に出でゝ才に帰する、智に発して智に 着する、如何なる事物に対しても利害の取捨を誤るが如き不明は決して為さない、日に 新、日々に新なる幸運の開拓は怠らない、陳をして代謝せしめて、其処に福利の将来を 怠らない、
 
 君は高等師範を卒業して、愛媛県師範学校に赴任し、後、福島師範に転じた、越鳥南 枝に巣ふたのだ、君は自重と自惚れと混線せしめる様な人でなかった、師範の教諭にな ったも書生の如く、無邪気に談じ滑稽を曰ふ、故に到処でさばけた好い人よと大特で、 老人に可なり小供に可なり、男に持て女には尚更持て、文雄さん文雄さんの持てさ加減 は、大変なものであった、高島屋!とか、成田屋!とか、大向を喝采せしむるだけの美 男児で、須内君と共に尾山二美男の誉高かりし人だ、而かも二人共に同病にて斃れたの も不思議である、君は教育家と曰はんよりは、寧ろ官吏たるべく、更らに実業界の人に 於いて天分益々発揮すべく、秘書又は秘書官たらば面白かりしならん、君瞑するの時 、享年三十歳、此人春秋に富まば将来の発展必ず刮目すべきものありしならんに、惜む べき人を亡うた。

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