鹿友会誌(抄)
「第二十冊」
 
△須内・高橋両秀才を弔ふ
一、須内圭資君
 君、夙に家厳を喪ひ、幼にして孤苦なり、未だ小学時代より既に花輪の国手若林氏の 学僕たり、他の小供の双親の膝下に愛撫の恩情に浴して生長したるものとは、其時より 既に運命に霄壌の差はあった、朝は霜天、未だ暁けざるに起床したであらう、犬の遠吠 、将た甘(三水+甘)水の湍音乃至は五ノ宮颪、夜は更けゆく真夜中、火の元用心のお役目を果たし て、氷の如き床に入りし事もありしならん、旦那様方の珍味佳肴と自己がお粗末の食膳 と相比して暗涙を澪したることもありしならん、
 斯く苦学の余暇に小学校へ通学したる も、成績は常に優秀であった、由来君の尾去澤小学校卒業時代は、俊才雲の如しとでも 形容すべき黄金時代で、前後を通じて君の時代程逸足の士が揃ふた時代は無いと云ふて も、溢美の過言でなかった、此雋才と轡を駢べて卒業の時は、可惜貧乏神に落ちた、
 
 是からは君の上京時代に入るので、君の辛苦は更らに新らしく愈烈しくなった、少年時代 悲劇の幕は閉ぢて、青年時代悲劇の序幕は開かれた、上京して麹町区平河町の某医院に 玄関番、則ち三杯目にソット出さねばならぬ居候侯爵となった、長鋏を撫して歎じた るも幾度ぞ、犬猫の機嫌からお三の天気まで予測順応しねばならぬ、居候の辛らい事、 思半ばなるものあったであらう、他人に食客たる決して門外漢の窺知を許さぬ、忍ぶ能 はざる程度の気の毒、無念、苦痛は数年走馬燈の如くに新陳代謝するものを、凡て前途 の野心の為に忍耐し貫くものは大なる人物であらねばならぬ、大なる克己堅忍は大なる 意気地なしと一致する、
 
 親あり金ある長袖の貴公子には這般の露宿霞餐の裡に含まるゝ神の陶冶の大慈悲は解ら ない、上は主公より下畜犬の御機嫌に共鳴せしむるの手腕能率、是れ却々能くする能は ざる難事で、而かも是れが彼の学校に於ける学力万能主義に裏切って、校門外一歩の活 社会の成敗利鈍上に於いて、再興至重の利器である、古今亶(之繞+亶)屯(之繞+屯 )行路難に立てる不幸児が、時に運龍蒸変して青雲に乗ずるものは、活書を其境遇の間 より学びたるものに非ずして何んぞ、
 
 須内君は前途の成功の為めに遭遇せし、雪據(口篇の據)露餐は、決して無益のもの ではない、副産物として頗る高価有益の活学を習得したのであった、  何分にも医者の学問は、銭の掛る学問であるが為めに、参考書を買ふ器械を購ふの必 要費は甚だ不如意、此点は君の苦心中の最大なるものであった、
 
 母堂は学校の裁縫教員となったり、他家へ針女に入たり、令兄茂雄君は自己の発展を 犠牲にして学問を捨てゝ、金になる方向に向き、令妹二人は他家に奉公に出で、一家を 挙て君が成功の後方勤務に就いて働いた、
 此挙家の努力は、遂に君をして医士としての成功をなさしめたるもので、家内の此 共同一致の努力は、実に悲劇であった、斯くして成功せし君は、小成に安んずる人でな かった、蒲柳の質でありながら、其研究心の猛烈なる懦夫を起たしむるものあった、
 
 赤十字病院、順天堂病院、市内有名の病院・名医に就きて学び、孜々汲々として倦まず 、遂に家に在りて家庭の快楽をすら知らずして逝きたるのであった、
 独逸語でも学び、将来名国手の名を天下に縦にせんとの大望あり、着々として其実 現に努力し、大成の半途未成品として逝きたるは惜むべきである、
 一家族総掛りで成功せしめし君の死は、須内家の一大惨事である、家族は其多年の犠 牲は償はるゝ事なくして死なれたるのは、寔に同情すべしだ、
 
 君は数ケ月富岳の麓、御殿場の某医院の医長として聘せられしも、研究に忠実向上に 熱烈なる君は、金は取れても一日も田舎に蟄居すべからず、青雲の志転た切なり、則ち 京に帰りて豊玉病院に副院長たり、此病院は避病院なるを以て猛烈なる伝染病の研究に 従事して、寝食を忘るゝに至る、
 苦学時代修養の苦労は、若いけれども到処として可ならざるものなく、院長に信頼せ られ、同僚には親愛せられ、先輩に可愛がられ、患者には神の如くに思はれて、其診察 投薬の下に、死するを悦ばぬものなし、看護婦には先生先生と敬慕せらる、君をして尚 (人偏+尚)し開業医たらしめば、門前市を為すの流行医でありしや明かであって、其 早世は惜むべきである、
 
 君の学に忠実の一端を記せば、苟も医学に関する講演あれば、必ず晴雨遠近を問はず 出席して、其所説に就いて思索黙考して批評研究する、学に忠、業に勉なる如斯を常と す、
 然して操行の一端を述べんか、君は頗る美男子なりしも、自重甚だ厳、品行の端正な る稀に見る処にして、色男を発揮して淪落の途に迷ひ入りたること嘗て無し、道楽とし ては写真と蓄音機位のものなりき、
 君は他人に接するに恩情を以てし、言必ず忠信、行必ず敦厚、道徳上より見たる君は 真に間然する処なかりき、
 
 君の送葬の日に、学友総代某医士は棺前に進んで弔詞を読みたるに、一語又一語読む に従ふて、手は震へ声曇りて遂に声涙共に下だり、一座をして手巾を湿せしむ、此一事 君の他人に対する平素の交情如何を立証するに足るものである、
 今の世の中に其友をして、棺前に真情より出づる涙を流さしむる程の深い印象を、其 平素の交情に於いて流露し居るもの、果して幾人あるか、死んで友をして其棺前に涕泣 せしむる信義の人幾人ありや、然かも泣くものは愚婦老婆にあらず、堂々たる紳士なり 、以て徳義の人としての君を偲ぶに足るなるべし、実に須内君、平素の言行は、其吉凶 禍福をば他人をして、人の事とは思はしめず、宛然として自身の吉凶禍福なるかの如く 思はしむるだけの高徳家であった、
 
 君、人の為めに労して怨みず、人の為めに煩はされて悔まず、人の為めに幾回迷惑し ても憤らず、交情は親切を以て終始して変らず、遂に須内君の前には、人をして彼我の 区別を忘れしむるのであった、
 君の病床日記の臨終の絶筆は、一休禅師の『今迄は人事とのみ思ひしが、俺が死ぬと は是れはたまらぬ』云々の狂歌であった、死するの日、享年三十歳、噫悲哉

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