鹿友会誌(抄)
「第二十冊」
 
△岩泉翁と丹野氏   東京 小田島生
 昨秋亡くなった岩泉源藏翁は、漢詩選の飲中八仙歌にでもある様な酒客で、年が年中 酒盃に親んで居たが、若い時は、毛馬内の先覚者を以て目され、三十歳前後で町長を勤 めたことがあったそうだ。
 翁は、幼少からナカナカ聡明な方で、格別勉強した風もないのに、何事にも一通り通 暁して居たは驚く程で、道楽もやり苦労もし趣味も多方面で、話して見れば、何か、こ う達観した人生観を抱いて居たらしい所があった。
 実際、人柄と云ひ素養と云ひ、抛って置いて惜しい様な人物であったが、夫が世に背 き、世に捨てられた様な形ちになって、単に水鳥記中の人物として了って仕舞ったのは 、若い時、頭が少し進み過ぎて居た結果、家庭なり社会なりと調和を失ふ様なことにな り、夫れが不平を醸す源因となって遂に白眼、世に対し失意を以て始終する様な具合に なったのぢゃないかと評した人がある。
 
 故丹野茂樹氏の、正直一本槍の交り気のない性格であった事は、何時かの会員逸話集 にも出たが、全くお世辞とか御上手などは薬にし度くもなく、実業家としては全く珍し い方であった。
 大倉組を止めたのも、這入った時、喜八老人から、思ふ様に保険の事を遠慮なく教へ て呉れ、と頼まれたのを、頗る真帳面に受け取った、同じの例の調子で会釈なし、余り 勉強家でない喜七君を叱り飛したので、遂に敬遠されて仕舞ったと云ふ事である。
 所が君のこうした性格が、外人に非常に信用を博する因となり、外国保険を始めて日 本に入れたも、同君なれば外国の本社から立派に支配人の辞令を貰ってやって居たのは 、代理店数多しと雖も、君位のものであらうと云はれて居た。
 夫れに君の趣味も大分外国向きで、大概三食の中、二食は西洋料理で済し、長身白晢 の風彩や洋服の着こなしから、英語のアクセントに至る迄、稀しい程日本人離れがして 居た。
 其の傍、目も振らぬ職務熱心と相待って、生前寄癖と迄云はれたのは、君の潔癖で他 の家では何を出されても、メッタに喰ったことがなく、自分の家でも食器は必ず目の前 で熱湯に入れなければ承知せず、新聞を見るにも二本の指丈けでソッとつまみ上げる、 と云ふ風だった、何時か神戸に勤めて居た時分、碇舶の汽船に「ペスト」が出来たと聞 いて、海岸に面した方の窓を悉く閉めて仕舞ひ、暑いのを我慢して、其の船が去る迄開 けなかったと云ふて、今でも話の種になって居る。

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