鹿友会誌(抄)
「第二十冊」
 
△亡友追悼録
○岩泉源藏君 賛成員として多年間接に本会の為めに尽瘁せられし同君は、毛馬内の人 、壮時町長として自治の為に奮闘せれし事あり、晩年は詩酒の間に放浪し悠々自適、 昨秋中風症の為めに易簀せらる、謹で哀悼の意を表す。
 
○丹野茂樹君 君は尾去沢の内田愼吾翁の令兄にして、南部藩の御典医たりし丹野茂 承氏の令息にして、高等商業学校を出で、始め海外貿易業に従事されしが、後、保険界 に入り、英国サン火災支配人として、多年大阪の支店を督し、斯界の故老として頗る重 んぜられしが、昨年七月肝臓病を病み、遂に起たれず、悲哉、
 左に君の略歴と、親友神戸商業学校長水島鐵哉氏の柩前に朗読せられし追悼文を掲げ て、君の為人を忍ぶの料となせり。
 
  故丹野茂樹氏略歴
本籍地 東京市日本橋区西河岸町十二番地
寄留地 兵庫県武庫郡御影町郡家字下り二〇九
 旧南部藩士丹野茂承長男
        東京府士族 丹野茂樹
文久参年参月於東京生
明治十年十二月 三菱汽船会社商船学校入学、同十三年八月二十日帆船太平丸見習士官 被令、同年十一月病気の為同校を退校す
明治十四年一月十四日 日本貿易商会に被傭、海外直輸出及荷物船積業担当す
明治十六年四月一日 在横浜和蘭ヴォンヘメルト商会へ被雇入、同十八年一月同商会 を辞す
明治十八年一月十五日 外国語学校所属高等商業学校に入学、十九年五月同校は東京商 業学校に合併せらる、同二十年三月同校を卒業す
明治二十年四月十日 三池鉱山局の臨時雇となり商業研究を兼ね、上海、香港、廣東及 新嘉坡等南洋及南支那海岸の要港を巡視し、同年六月帰朝
明治二十年十月弐拾四日 任内務属、土木局、治水課道路課に勤務、同局雇工師ムルド ル氏通訳を命ぜらる、同二十三年二月ムルドル氏満期解傭 に付き辞職す
明治二十三年三月 浦塩斯徳、支那、印度、米国等へ輸出貿易を独立経営す
明治二十六年六月 浦塩斯徳へ渡航し、同地に支店を開設、業務の発展を企画、数月滞 在、帰朝す
明治三十年十二月 商品試売の為め英領新嘉坡へ渡航、同地に商店を開設し、同三十二 年まで滞在、本邦商品の販売に努めたるも利あらずして、商店を閉鎖し帰朝す
明治三十二年五月 三重県四日市商業学校長兼教諭拝命(年俸千円下賜、三十三年四月 千二百円下賜)
明治三十三年九月二十七日 依願同校長兼教諭を免ぜらる(同校在職中は四日市通訳員 を嘱託せらる)
明治三十三年十一月 横浜火災海上運送株式会社に被雇主事を被命、同社東京支店長申 付けらる、同三十五年六月神戸支店長に転勤、同三十八年八月辞職す
明治三十八年八月 大倉組に招聘せられ、一等事務員申付けらる、同十二月火災保険部 長兼神戸出張所主任を命ぜられ、同四十二年十月廿三日大倉組本店に転勤を命ぜられ、 保険部総主任を申付けせる、同四十四年四月廿五日同組を辞職す
明治四十四年五月 英国サン火災保険会社の招聘に応じ、同社支配人に選任せられ、営 業を日本に拡張する為め、支店を東京・大阪に親切し、大阪支店勤務、専心業務の発展に 努力せり
以来同店に勤務せるも、不幸にして天寿を藉さず、大正五年十月胆石病を患ひ、次いで 大正六年五月肝臓癌を病み、遂に同年七月廿一日死亡せり
  法名 永祥院茂林鐵樹居士
 遺骸は、神戸市春日野秋葉山歓喜寺境内に埋る
 
○吊詞
 辱知水島鐵哉、謹で故丹野茂樹君の英霊に告ぐ、余は君の訃音に接して、今更の如く 人生の無常を覚り、日夜感慨極りなく、遂に此式場に於て沈黙を守るに忍びざるに至れ り、由て茲に聊か君の経歴の一端を叙述し、且つ余の所感を披瀝して、暫く追憶に耽ら んと欲す、君、幸に之を恕せよ。
 
 回顧すれば余が君の知遇を辱うするに至れるは、明治拾七年君と共に東京外国語学校 附属の高等商業学校に入学せる時に始まれり、当時余等は垢面弊袴の田舎書生なりしに 、君は已に一個の老成の紳士なりき、聞く処に依れば君は入学以前、数年間実業界に在 りて、幾多の辛酸を嘗め来れりと云ふ、さればにや明治弐拾年学校を卒業するや、君は 直ちに独立営業に従事し、其の当時世人の未だ着眼せざりし露国貿易を試みて、浦塩に 往来し、或は又印度貿易を開始して、孟買に支店を設くる等、専ら新市場に向って我が 商品の販路を開拓することに努力し、百難を排し万難に耐へ、奮戦苦闘すること約拾年 、而かも時期尚早く労多くして功少なく、加之君の健康亦旧の如くならざるに至れるを 以て、遂に断然業を廃して暫く休養するの必要を感ぜらるゝに至れり、君の遺憾真に思 ふべきなり、而かも其当時君は、余り多くの愚痴を語らず、唯事業失敗の為め、他人に 対して何等の迷惑を及ぼさゞりしは、聊か自ら慰むる所なりと語られたるは、今尚余の 記憶に存す、以って君の人格を知るに足る、
 
 然り而して君が暫くの休養を望まるゝに際し、恰も三重県四日市商業学校に於て、同 校改良の為め適当なる校長を求めつゝありしを以って、余は君に向て暫く育英の事業 に従事せられんことを勧め、明治参拾壱年同校長として就任せられ、在職約弐ケ年にし て、校規大に張り、基礎亦固まれるを機とし、再び実業界に投ぜんことを望まる、
 依って余は君を横浜火災海上運送保険会社に推薦せり、是れ君が火災保険業に関係せ る始めなり、君の同社に在るや、神戸支店に在勤し、功績大に見るべきものありたり、
 後、大倉組に転じ、専ら外国保険会社の代理事務に鞅掌せらるゝや、英国サン火災保 険会社は大いに君の人格と手腕とに信頼し、時に君に請ふて、日本に於ける支店長たら ん事を以ってし、漸く君の承認を得て、始めて大阪に支店を開設するに至れり、以っ て君が如何に深く同社の信任を得たるかを推知するに足る、
 惟ふに君の事に当るや、熱心にして勤恪精密にして敏達、常に Business like. に事 を処理せらるゝの技倆、我国人中稀に見る所なりしに因る也。
 
 以上君の経歴を顧みるに、君の末路は必ずしも失意の境遇にあらざりしが如し、而 も君の人物と手腕とに対しては、決して成功の人と云ふ能はざるは、余輩の大に遺憾と する所なり、
 凡そ人物の価値は、単に事業の成敗のみを以て論定すべきに非ず、君の如きは、今よ り参拾年の昔、衆に率先して露国及印度貿易を開始し、一身を犠牲に供して、幾多の商 品の新販路を開拓し、以って冥々の中に我国海外貿易の拡張に寄与せられたるの功績は 、仮令世に知られざるも男子の以って快とすべき所なり、
 若し夫れ君をして、現今の如き好時機に於て、当年の如き年少気鋭の青年たらしめば 、必ずや大なる成功を収められしは、余の確信する所なり、其は兎も角として、君のサ ン火災保険会社を代表せらるゝや、外国の大会社をして我が日本にも亦十分信頼すべき 人士の存在する事を知らしめ、以って外国人に対する我国民の信用を高めたるの功果、 亦決して少事なりと謂ふべからず、君宜しく以って瞑すべき也。
 
 尚茲に特に君の傾聴を望むことあり、聞くが如くば、君臨終の前一日、令室に問ひ、 是非共余を訪問して、令息の教育に関して、余に依頼すべきを以ってせられたり、と余 、正に之を諒せり、余微力と雖も、力の及ぶ限り君の依託に背かざらむことを誓うふ、 惟ふに、令息も亦、此事を聞き、奮発興起、以って君の亡霊を慰め、死後の孝養を尽す ことを怠らざるべし、君、幸に意を安んぜよ。
  大正六年七月弐拾五日
        水島鐵也泣涕再拝

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