鹿友会誌(抄)
「第十九冊」
 
△噫!山口岩吉君   東京 小田島生
 山口君が、私の内に来たのは、明治四十四年の春で御座いましたらうか、其の前は国 の方で教員をやって居たと云ふ事で、何うかして中学に這入って、夫から上の学校に進 まうと云ふ志望で、断然教職を擲って出て来たと云ふ話でした。
 
 内に居ましたのは約一年半ばかりの間で、昼は炭を担ついだり、車を挽っぱったり労 働に従事し、夜は熱心に受験準備をやって、翌年の春が芝中学の四年に試験を受けて入 学しました。夫れからまもなく私の処を出て学校の近所に下宿し、純然たる苦学生活に 這入りましたが、何分昼間は学校に行くので、働くのは朝か夜かに限る訳なので、暫く 納豆を受けて来て、朝、学校に出る前に納豆売りをやって居ましたが、余り思はしくな いので、いろいろと工夫の末、夜分に俗歌の読み売りを初め、縁日や盛り場に出かけて 、唱歌仕込の太い声でイロンな流行唄を怒鳴って、本を売って居ましたが、此の方は割 合に好結果で「ナンテ間がいゝんでしょう」といふ節の流行った折りなぞ、帰りかけに 立ち寄って「今日は之れ丈け商売がありました」と、二円近い小銭を財布からあけて見 せた事なぞがありました。
 
 学校の方は特待生の格で、月謝を免除して貰ひ、辛うじて中学を卒業して、札幌の農 科大学実科の試験に応ずると首尾よく及第したので、先づ折角東京に出て来た甲斐があ ったと喜んで居ました。併し学資の出所が依然として無かったので、私から川村十二郎 君に話し、夫れから川村知事にお願をして、鹿友会の貸費生として同学資の給与を得る ことゝなり、勇み進んで北海道に赴きました、夫れから亡くなるまで遂遇ふ機会があり ませんでしたが、時々貰った手紙によって見ると、札幌でも四五名同志の士をかたらっ て自治寮見たいなものを設け、頗る清教徒的の健実な学生々活を送ったらしく、学校の 方も三年間いつも優等であった様でした、
 
 卒業すると直ぐ根室の牧場に雇はれ、同地に赴き、茲に勤務中妻帯した様ですが、細 君は何んでも元札幌に下宿した家の娘とかで、未だ早いと固辞したに係らず、先方の親 々が山口君の人物を見込んで、是非貰って呉れと云ふので、止むを得ず結婚したといふ 意味の長い手紙を、其の当時貰ひましたが、此のあたりが君の苦しみ通しの短い生涯中 、最も楽しかった時代と見て差支かない様です。
 
 病気に罹ったの夫れから間もなく、初めは腫物の一種と思って居たらしかったですが 、後々容態が悪くなるので、小樽病院に入院の上、よく診察して貰ふと、何んでも余り 性のよくない骨膜炎だったとか云ふことで、長兄の榮助君が迎へに行くと、モー余程弱 って居て、国迄つれて帰るに大分の時日と費用を掛けたといふことでした。夫れから小 坂病院に暫く入院して、幾らかよくなって花輪に帰り、大里さんや柏田さんの懇切な治 療を得たそうですが、大腿部に大きな穴がありて、夫が何うしても癒り切らず、湯瀬に 出、養生中、遂衰弱の為めに亡くなったと云ふ事で、其通知を受けたのは、丁度私の弟 が死ぬ十日ばかり前でした。此弟は、山口君に対する私の家中、一番の同情者で、山口 君が朝から晩迄納豆ばかり食って生きて居た時分なぞは、内からソット米を持って行っ てやったり、始終、陰になり日向になって山口君の為めに心配して居ましたが、偶然に も死期を同くしたのは、能く悩くの奇因縁とでも申しませうか。(弟が瀕死の床上に君 の訃音を聞いてオロオロ泣いて居ましたが、全く悲劇の様に思はれました)
 
 君が意志堅固にして、恒に烈々たる向上の念に富んで居た事は、君の悲壮な短生涯に 徴しても明かであるが、も一つ特記すべきことは、頗る道徳的な人間で、人格の修養と云 ふ事に大変重きを置いて居た事です。苦学時代も仲間に品性のよくない人間が多いこと を始終嘆いて居ましたし、自分の恩になった人々のことは始終念頭に置いて、感謝を払 って居た様です。此の点に於て足の一本位無くなっても、生きて居て呉れさへしたら、 郷里の子弟の教育に当らせても、充分よい感化を与ふるに足る素質を持った男でしたが、 全く惜しいことをしました。
 
 其のくせ身体は極く強壮の方で、何んでも事業をやるには、精力の蓄積が一番大切だ と云ふので、腹式呼吸や冷水浴も真面目にやり、自分の丈が短いことを苦にして態々阿 米利加にそう云ってやって、丈を高くする機械の見本を取り寄せて見ると云ふ程の体育 熱心家でしたが、あれ程品行も謹み、慾望も制し、克己的な衛生家もフトした事から、 早く死ぬんですから、全く何にが何やら分らない次第です。

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