鹿友会誌(抄)
「第十九冊」
 
△故高橋志郎君と僕
四、臨終
 時は大正五年の五月末であった、拙妻より君の帰郷を薮から棒に報ぜられ、其何故な りしやも判明せざりしかど、無論帰郷の上、静養せんとの目的なるべしとは察してあっ た、間もなく君の命なりとして君の厳父より其目的にて帰郷せる旨を通信ありたれば、 是非僕も帰郷の上、病苦と旅の疲れを慰めん、と事務の整理に着手した。当時僕は、北 秋阿仁合鉱山に出張中であった。
 
 確か六月の四日と記憶するが、君の大中時代の同級生で、僕と特別に親んだ高橋慶太 君の、僕を訪問するありて、君の永き病苦を悲み会って居る際であった、何たる悲哀ぞ 、何たる無情ぞ、君が此世と永き告別をなしたりとは!噫! 高橋君は驚き、僕は狼狽 した。あゝ君は遂に神の膝元に還られたのであった。
 
 僕は報知を得ると直ちに舟を艤はしめ、小雨しょぼしょぼたる中を外套に包まれて、 浪荒き米代川を米内沢まで下りた、奇景佳色も愁哀の色と変じて居る、鷹の巣に着いた のは、いとどの暗の世を全く暗黒にしてあった、午後の八時過ぎであった。
 翌朝の汽車中は、葬式場に読むべき弔詞の原稿に万年筆を走らした。弔詞も大滝駅を 通過したる時、漸く終了してあったが、其読むべき葬式の何日なるか判然しないので、 断えず気を揉んで居ったのであった。
 処が豈計らんや、君の葬式が既に営んだと松山駅にて僕を乗せた車夫から聞かせられ たのである。何たる遺憾ぞ!
 
 あゝ君よ!葬式の翌朝、君が墓前に、独り涙に咽びつゝ朗読したる一親友の誠ある弔 詞を感受せられたるや、僕は、君が霊の此蕪辞を諒とせられたることを信じて疑はない のである。
 嗚呼!僕は先きに力ある兄弟なる豊口柳太郎君を失ひ、今亦君と別る、何たる不幸ぞ 。豊口君も君も、僕の病中生あっての物種なり、先づ生きよと常に忠言したるに非ずや 、鹿角青年実業家を以て、郡内に頭角を現はしたる豊口君逝き、将来ある青年国手 たる君が去りて、無為浅才の我輩が、君等に忠告に依りて生残し、内心恒に慚愧に堪へ ない次第である。あゝ!
(大正六年三月二十四日福島県原ノ町旅宿に於て)

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