鹿友会誌(抄) 「第十九冊」 |
△亡友追悼録 ○川又金太郎君 君は花輪の人、十七歳にして郷里を後に東京に出でんと志ざし、途に 栃木県に至り、同地人の信望を受け、長く同県塩谷郡新田村に止まり、独力研学、小学 校教員資格を得、県下各小学校に職を奉じ、明治三十六年頃出京、芝区愛宕小学校に転 じ、軈て文官普通試験に応じて、内務省警保局に奉職すること七年、数年前、職を辞し 商業を営まれたるに、不幸胃腸病に腎臓病を併発し、大正五年九月遂に逝かる、享年四 十九、息武夫君は目下油絵の研究に従事せらる。 ○小田島五郎君 賛成員小田島由義君の五男にして、東京正則中学校卒業後、早稲田大 学に入りしも、病の為めに退き、房州に赴き静療さるゝ事約一年、病癒えて郷里に帰り 、郡書記として勤務中、痾再び発し、大正四年十月上京して百方治療を試みられしも効 を奏せず、越えて五年五月市ケ谷の仮寓に於て瞑さる、行年二十六歳、君、幼より文章 の才あり、毎号巧妙の文字を寄せて、誌上を賑はされしが、今や亡し、本誌編輯に当り て君を懐ふの念、殊に切なるものあり。 ○高橋志郎君 毛馬内の人、幼より俊秀の称あり、大舘中学校より進みて、大阪高等医 学校に入り、始終優等成績を持続して、大正四年業を了へ、前途有望の少壮国手として 頗る期待されしが、天、此の才、人に幸せず、修学中も屡々君を苦めし病痾大に進み、 淡路島に赴き、一時快方に就かれしも、遂に回春の期なく、大正五年六月郷里に於て白 玉楼中の人となられたり、多年蛍雪功成りて、社会に立て大に志を伸べんとするに臨み、 俄然として夭折さる、真に人世の恨事と云ふ可し。 ○山口岩吉君 宮川村河辺の人、小学校を了りて準備所に入り、暫く職を郷里の小学校 に奉ぜしが、勃々たる向上の志禁ぜず、明治四十四年決然上京して、当時薪炭販売業を 営まれし会員小田島氏の許に身を寄せ、昼間は労働に従ひ、夜間は受験準備に勤め、 翌春受験の上、芝中学四年生に入学するや、小田島氏の許を退き、純乎たる苦学生活に 入り、或は払暁納豆売りを試み、或は夜間俗歌の読売りをなし、一方特待生として優秀 の成績を続け、月謝を免除さるゝ等、毫も他人の輔を得ずして中学を卒業し、直に札幌 なる東北大学実科の入学試験に応じ及第せしも、依然として学資欠乏の為め頗る窮せ しが、たまたま本会に奨学資金設置の事あり、君を以て第二次の貸費生となす事に決せ しかば、全く後顧の憂なきに至り、爾来三年間北海道の学窓に頗る快濶にして健実なる 学生々活を送り、大正四年優等を以て業を了へ、直に根室牧場に技師として赴任、同地 にあること約一年にして、不幸執拗なる病魔の襲ふ所となり、職を辞し郷里に帰りて百 方治療に手を仁せしも遂に癒えず、不撓不屈なる君も弓折れ矢尽きて、昨年四月郷里に 於て遂に館を捨つるに至りぬ。 噫、漸く霜雪を凌ぎ得たる寒梅の之れより春光に浴して馥郁たる香を放たんとするに 当り、無惨にも狂風の為めに吹き散らさる、薄幸なる君の運命に対して誰れか涙なから む。然れども殆んど努力奮闘の結晶とも称す可き君の生涯は、縦し二十有七年の短きに 止まりしとは云へ、徒らに逡巡懶惰、碌々為す事もなく百年の寿を重ぬる者に比し、其 の充実せる点に於て、緊張せる点に於て、遥により優れたるものあらむ。 ○坂本慶藏君 本会の尤も古き会員の一人にして、多年秋田県技手たる君は、数年前よ り健康を害し、秋田市より郷里小坂町に帰りて静養中、薬石効を奏せず、昨年四月阿兄 の膝下に逝かる、可悼。 ○青山乙治君 尾去沢の人、久しく音信に接しせざりしが、大正四年中死去せられしと の報あり、本会より其の親戚の方に対し照会を発せしも、遂に返信を接手するに至らず 、諏訪熊次郎君と共に其の肖像閲歴等を本誌上に掲載する能はざるを遺憾とす。 ○諏訪熊次郎君 昨年郷里大湯に於て死去さる、謹んで哀悼の意を表す。 ○大里学士夫人 台北地方法院判官法学士大里武八郎君夫人、名は恒子、信州の人木宮 氏の令嬢にして、お茶の水女子高等師範学校を卒業し、後、神田橋なる共立女学校に教 鞭を採られ、才色兼備の誉あり、後、本会の慈母にも譬ふ可き大里法学氏に嫁して、琴 瑟相和し、数子女を挙げられ、渡台後も和気靄々たる家庭の主裁者として令聞頗る高かり しが、不幸新領土の苦熱は夫人蒲柳の身を害し、久しく腸胃を患はれしが、昨年九月病 俄に革り、芳魂空しく天に帰して白玉楼中の人とならるゝに至りぬ、悲しとも悲し。 |