鹿友会誌(抄) 「第十八冊」 |
△故青山雅雄君 五、記者時代 誤て前後二回迄飯を食ふの方法は鉱山員たるに限ると考へて、自分の性質の適不適も 思はず、使命の那辺にあるをも考へず、盲目的に鉱山員たらんとして失敗したる君が、 始めて著述家又は新聞雑誌記者として立つべく決心し、天の賦与亦此にありと考へて、病気 快方を待て決然として上京したのだ、愈上京したが就職口は却々見当らず、徒に月日を 送って居る内に、君の財嚢は益々乏しく、下宿料も滞ったので、下宿屋では飯を出さ ず、或朝顔色憔悴として余を尋ね来る、余、病気か又は飯を食ふたりやを問へば、遂に 下宿屋の飯を出さぬ事と、断食中の事実を白状す、則ち飯を出したるに『飯を食ふより 此弁当箱に弁当を拵へて呉れ』と云ふて一大アルミニューム弁当箱を懐中より取出した 、余、呵々大笑して、君よ漂母の餐を快く享けよと、五六椀を平げしめ、又弁当を充実 して与ふ、君よ又明日も来れ、遠慮する勿れ、下宿屋は君に飯を出さずして君を撃退せ んとせば、君毎日、余に来り空腹を充填して、下宿屋を退去する事なく対戦せよと勧告 せしも、三日目に其所持品は一切捲き上げられ、敗軍の将として喪家の犬の如く、又余 に来りて実情を告ぐ、君、其の時啼泣して曰く『万物惜むなし、多年貯へたる新聞雑誌 の切抜一封あり、之と別るゝ恋しき女に別るゝより悲し』と以て君の面目を偲ぶべきな り、其内に余の紹介効を奏して、新潮社に記者となり入りぬ、 君の本領の発揮す可き活舞台は開かれたり、使命を果す可き時は至れり、然るに三度 不幸は見舞へり、君は病気の為に辞せざるべからざるに至り、去りて日立海岸白砂青松 の間に、痩せて咳をする蒼白の青年は、毎日一人尚(彳偏+尚)羊(彳偏+羊)する を見るに至りぬ、是れ天才青山雅雄君の生きんが為の努力をして、屈原の慨世憂国を欠 くと雖も、天を怨みつゝ病を養ふなりき、 大笑元年余が日立に転地した時は、宿を選定して呉れる、海岸の散歩を共にして君の 文学談に耳を聾したものだ、色々の生花鉢植を持参して、余の旅情を慰めて呉れる、却 々交情も深い男であった、我侭に至りては天下一品、君常に余に語りて居た、曰く『僕 の家の者は皆、僕を早く片附いて呉れるとよいと思うて居りますが、我侭と数年の長病 であるから無理はないです』と笑ふのが常であった、 昨年会見した時は、酒は飲む、煙草は喫む、少しは浩然の気も養ふらしく、顔色も頗 るよく、談論風発、斯の人再び世に出づる、近き将来にあらん、と意を強うせしめたが 、昨年は『岩手国境の某小鉱山に、数人の鉱夫と君は厳窟王然として、唯一の鉱山長兼 小使、狐狸を伴侶として山塞生活をして居る、莚酒を造って、毎日一日の苦労を晩酌に 慰めて居れば、例令美人の膝を枕として天下の権を握らずとも、首陽山上蕨を採るの苦 しみもなく、至って愉快である』と、云って居た、而して又君は曰く『我輩が鉱山は当 ったならば、東京に金時計、金縁眼鏡、数万金の美服を着けて出掛けて行き、先づ鹿友 会に数万円で寄宿舎を建てゝ寄附する、自動車数十台に、鹿友会員を乗せて築地精養軒 で新橋の美形を数十人侍せしめて、一大馳走をする』との気焔であった、余は其時は君 の吏とならんと孔子気取りで一日の清談を試みたが、今や幽冥境を異にするとは、悲哀 胸は裂ける様に思はる、 二度鉱山員となりて、安全な飯を食ひ損ね、一度文章子とならんとして物にならず、 最後に鉱山王たらんとして成らずして虚焉として逝く、年廿八歳、 君は一面非常に可愛らしき性質あり、嘗って尾去沢で鹿友会の夏季大会を開いた時、 阿部守己氏の山荘に、君は酒に膳に莚等を負うて汗を流して働いて独りで嬉しがったり 、母上などに何うかすると非常に孝行で、昨年などは母上は『近来雅雄は親孝行になっ て、私に酒を買って飲ませるし、親切でよくなった』と喜んで居られたなど、頗る佳話 に富んで居るが絮説は略すことにする。 |